福岡にバラの地を求めて 大守 加津馬
昭和56年/1981 創立30周年記念号 掲載
歴史の町としても名高い福岡だが、名花バラについては、昔を語る何ものもないというのは言い過ぎであろうか。 私が福岡へ転住したのは昭和16年の春で、東京から当時の新種バラ約30種をたずさえて来たので、街の人は不思議そうに眺めていた。やがて、その花が咲いたとき、やれ牡丹だ、造花だと評判になり、乞われるままに初めは無償で切花を提供した。福岡では、昔からバラを「イゲボタン」と呼び、多くの人は庚申バラと垣根用つるバラ、それに店頭に売れ残る切花用のバラ以外は、見る機会がなかった。恐らく、これは九州全体についてもいえることだろう。
私は、東京では早くから帝国ばら会に入会していたが、業者も稀で新種苗を得ることは容易ではなかった。新種苗の原木は1ヶ月もかかって海を越え、税関を通過して来るので傷みもはげしく、活着は保証されないが、入荷の情報があるとじっとして居れないで、駒込のばら新(日本最古のバラ業者)あたりへ夜詣りした。誰よりも早く入手するのがねらいだった。時に世情は悪い方へ突っ走るばかりで、遂に帝国ばら会は解散し業者も野菜作りに転向をはじめたので、私の転任はよい潮どき、生活しやすい福岡に住みついて手持ちのバラだけでも絶やすまいと決心した。
しかし福岡でもバラに必要な農薬が入手困難になり、隣組の防空演習のたびになけなしのバラが続けて踏み折られ、棘があるので反対に大目玉を食った。その後、私も召集されて二年近く従軍し、幸いに終戦の年の春許されて帰還した。全くあきらめていた地植のバラが半数近く私を迎えてくれた。私は、棘がなければ頬ずりしたい気持だった。戦時中生き抜いたこのバラが、日本で最も古いバラ業者の名古屋の遊花園から望まれてバラの接ぎ穂として送られたり、北大まで苗に仕立てられて旅立ったりした。
戦後の数年はバラにとって沈黙の、陽のあたらない、堪えがたい毎日だったと思う。市民は戦時にもまさる努力でそれぞれ生活を立て直しバラの魅力を思い出していた。私は同志のために京都のタキイ種苗のバラ苗を数回にわたり多量に取り寄せで分譲し、裁培品種は年毎に増加した。昭和27年の春になり、念願のバラ会が玉屋百貨店の後援で結成され、その第1回バラ展の出品にはおおいいに役立ってくれた。
第1回バラ展の出品は、私の他に初代バラ会長に押された誇り高き猪野翁が愛培の古花を出品、翁や私と共に会の結成に寝食を忘れて奔走し、後に佐世保へ転住した佐世保バラ会結成の指導者・徳永氏が新花の美しいところを出品、業者の立場を離れて協力された赤司広楽園からも、かつての南瓜畑で育てた切花をたくさん出品していただいた。更に2日目からは愛好者に花を出品して入会していただく1石2鳥の首尾、会場は狭く容器はサイダー 瓶とはいえ、心配された初めてのバラ展成功に関係者一 同夢見心地だった。若くて熱ある幹部の川田さんの黄色い大輪バラが一際光っていた。
バラ会には顧問に九大の神中博士を迎えたが博士は学究的バラ愛好者で、数十株のバラの植え込みは洋館によく調和し、テラスのある書斎にはバラの洋書が列べられ. 始めての訪問者も暖かく迎えられたお人柄は忘れることができない。お屋敷は町の人から「バラ御殿」と称されていた。
なお、後日になるが、香稚の西鉄花園が杉本園芸主任の努力で、荒廃した戦前のチューリップ園から、バラ園を中心にした綜合植物園へと生まれかわり、愛培されていた貴重な古花を含めて多数のバラを公開されたことを特記したい。