心に残る一輪の花との出逢い 木附 久雄
平成16年/2004 No.14 掲載
白牡丹といふといえども紅ほのか この高浜虚子の有名な句が、何かしら気になっていた。大輪の牡丹の純白を強烈に enhance して余りある、ほのかな紅とはどんなも のだろう?
その出逢いは偶然に訪れた。平成13年5月4日、めったにしない家族旅行。
奈良・長谷寺の長い回廊の階段を登っていくと、その両脇の広大な花畑には、夥しい数の牡丹が咲き乱れていた。五月晴れのもと、白、紅、淡紅、紫、黄色、桃色の、今が真っ盛りの大輪の牡丹たち。数千本はあろうか?花王と呼ばれる牡丹の居並ぶ様は、唯々、見事の一言、牡丹の名刹と聞き及んではいたが、確かに迫力に満ちたものであった。
やがて山頂の本堂を拝観した復路の下り坂、およそ人影もないモミジの樹の傍らに、木漏れ日を受けて、一株の白牡丹はひっそりと、こちらを向いて座っていた。淡緑色の波状複葉の重なりの梢上に、直径20数センチはあろうか、レースの様な薄さの花弁の重なりからなる純白の大輪。そして、淡いほのかな紅は、そのあまり深くはない花芯から、外に向かってほんの僅かに広がり、霞のように、未だ朝露を残した純白の花弁の中に溶け消えていた。その一輪は、壮大な牡丹畑の残像を消しさる程の存在感と、また繊細さを合わせ持っていた。ほんの一瞬ではあるが、周囲と隔絶され、その一輪の花しか見えなくなり、 自分の心のかなり深いところと、花の神秘そのものとが一体になっていた。
この様に、美しさを際立たせた一輪の花と対面した瞬間、その強烈な迫力、魔力に打たれ、一瞬、時間が止まる様な体験。その衝撃は、群生する花、見事に三次元に構築された花の庭園からも得ることが出来ない体験である。こんな体験を、幸せにも、もう一度したことがある。
日の出の薔薇呟き癖も癒えて止む 加藤楸邨を一瞬で黙らしてしまった、日の出の薔薇とはどんなものだろう?話が卑近になって恐縮だが、私は平成 10 年頃から、家庭菜園と花作りに凝っていて、いろんなものを栽培していた。四季の野菜は言うに及ばず、メロン、スイカ、イチゴ、ミカン、ハーブ、クレソン、棚を作っての豆類、ニガウリ等々。花に至っては、プランターで栽培出来るものは数知れず、百合、牡丹、芍薬、月下美人、蘭、カトレア、あげくの果ては仙人掌、蓮、万年青と手を広げていた。これらの栽培中出てくる、軽石、廃土、植物の根、あまった肥料等の処分に困り、仕方なく駐車場の隅にこれらを山積みにしていた。いつ誰が植え付けたものか、そこに薔薇の古株が根を張っていようとは知るよしもなかった。
平成 13 年6月中旬、梅雨曇りの薄い霧に包まれた早朝。いつの間に芽吹き・成長していたものか、腰まで廃土に埋まった薔薇の古株は、驚くべきことに、すっくと一枝を天に伸ばし、その先端にローズピンクの一輪を開花させていた。起きぬけの太陽は、東の空の僅かな雲間から、控えめだが、しかしくっきりとその薔薇だけを照らしていた。廃土に埋められた侮辱に耐えつつ、細い首筋をしたたかに立ち上げたその薔薇の生命力に、畏怖の念を抱いたのはもとより、どんよりした空間の中で、朝日を独占して満足そうに照り輝くその一輪の薔薇の姿は、時間を止めて、強烈に網膜に焼き付けられた。
この様な、心に残る一輪の花との出逢い、それは残念ながら、ほとんど偶然にしか得られない。しかし、花の神様は、花を愛し、四季を通して勤勉に花の世話をしたものにだけは、予告はしないが、御褒美として、そういう出逢いを叶えて下さることがあると信じている。それは、早朝かも知れない、夕焼けの中かも知れない。雨の中かも霧の中かも、月明かりの下かも知れない。
一輪の薔薇との出逢いは、野菜作りの農夫を、あっさり薔薇園の番人に変えてしまった。薔薇栽培を、平成13年冬から始めた。短期間に HT 50 株、F 20株、Cl 4株、ER 7株、Min 10 株まで増やした。それぞれの薔薇の前には品種名、作出者、作出年、系統を付記した手製のプレートを立てている。前述の薔薇は、一番目立つ場所に丁重に移植した。傍らには、 品種名が判らないため unknown と表記したプレートを立てた。Unknown は、平成14年 春・秋と 15 年春には、周囲の薔薇に見劣りしない美しい花を咲かせてくれた。しかし、 あの瞬間に再び出逢うことはなかった。H15 年8月、猛暑の中、この unknown は、立派な名前の付いた後輩達の居並ぶ様子に安心したものか?私の管理の不甲斐なさに愛想を尽 かしたものか?残念ながら、枯れてしまった。しかし、その薔薇は、私の中で、今も尚咲き続けている。そして、unknown はこの原稿の作成中、平成 12 年に亡くなった、花好きだった母が、ずっと以前に植えたものだと言うことがわかった。
一輪の花との出逢いも、一期一会。
平成14年10月 福岡バラ会入会