デコレーションと婦人部 釜濑 真寿子
昭和62年/1987 No.4 掲載
婦人部が出来ましたのは38年4月頃の事、それまでは赤司広楽園で、赤司富代様(広次様のお姉様)、土屋様、金沢様、柿本様方が集られ、ばら展の飾りつけの事など種々ご相談なさっていらしたそうです。一草流の吉開先生や草月流の片山染昭先生方が、ばらをアレンヂした生け花を飾っていらした会場も仲々見事でした。
それが38年4月頃、それぞれのアイデアによるデコレーションを飾りましょうと云う事で、会場の1米角の柱を中心にしてまるく囲い8つに仕切って、扇形のコーナーを8人で受持つことになりました。そこで柿本さんを部長に潮須美江、末松ミサオ(現副会長末松慶和先生のお母様)、 広橋正子、太田英子および赤司富代の皆様方で始めました。それに1席、2席、3席の賞も設けて盛大なものでした。男性会員も参加して8人がはみ出して10人になったりして会場のお客様も楽しみに見に来ていらっしゃいました。
それぞれがご自分で材料を持ちこみ、時には赤いカナリヤの篭も3日間1役を買ったり、豆電球を沢山つけて 点滅させてばらのコサージュを引立たせたりして手の凝った方もありました。又ドライアイスをおいて陰に小型 扇風機をかくして霧の感じを出したり、又小型モーターで水を吸い上げて、上のビニールパイプの穴から滝の様 に水を落したり、凝りに凝って夕刻となってもまだ終らないと云う笑い話しもありました。これもばらを愛する ご婦人方の和が軸となって出来た事でしょうね。ばら展が終って食べ歩きの楽しみも又度々ありました。
初代の柿本夫人(サッポロビール福岡支店長夫人)は美人でおおらかな方で、何事にも「あらそお」とすまさ れる包容力の有る処が慕われるのでしょうね。誰か親睦を妨げ、統制を乱す方があると、やんわりときびしく処 置なさる辺りはさすがと思いました。
潮さんは柿本さんの無二の親友、お人柄がよくて、私の処とは極く近いのでお互いに、よく往来しました。婦 人部の集いなどで支払いの段になると人を押し倒してでも払いたがるから払はせておけば好いのよと、よく柿本 夫人が申されましたが、柿本さんが59年12月、80才で亡くなられ、その後を追う様に潮さんも長崎のご長男の宅で亡くなられました。その時柿本さんのお嬢さまが長崎迄はるばる白いばらをお持ちになって、お柩を飾って上げられたそうです。
末松ミサオ様はとても腰の低い方で、いつもにこにことして暖かい方でした。72才頃まではデコレーションにコンテストにと活躍されましたが、56年11月に88才で大勢のお身内の方々に見守られて亡くなられました。私はいつも、あの様な晩年を迎えられたらと思いながら爪の垢程もまねることの出来ないのが恥しうございます。
広橋正子様もデコレーション飾りに熱中して閉店間際まで、「そっちに白いばらなあい?」と銭湯の中の様な賑わいで大きな声でやっておりましたが、とても誠実な方でした。4、5年前になりますか3月の役員会の途中からどうかあったのでしょう、「また来るわ」とコートの襟を立てて雪のちらつく中を大宰府のお宅まで帰って行かれた後姿が忘れられません。その3日後に79才で亡くなられました。昨年2月の雪の降る日、大宰府へ参りました折に、かつてのお住いの辺りを随分探しましたがお家の跡形もなく、三笠川の流れに消える雪を眺めて感無量でした。
こうして婦人部も何人かの立派な方々を失いました。そしてデコレーションも幾度か変転して現在の様に婦人部全員のお力添えで続けられて居ります。
心暖まる先輩の方々の残されたデコレーションが何の不思議もなく続いておりますのも皆でばら展を守り上げ ようとする気持と玉屋さんの暖かい應援が相まって出来ることと思います。ばら展の間は毎朝8時迄には会場に 着いて準備に追はれ飾りつけに時のたつのも忘れていると、地下からのパンを焼くおいしそうな匂いに気が付い たら腹時計はお昼になっていたと云う奥様連中の涙ぐましいお手伝いがあって出来るのですが、それには家族の 方々のご協力が得られて始めて頑張られるのですから嬉しい事と思います。これからもお体の事を考へ、どうぞお力添えをお願い申し上げます。