<薔薇随想>
3.11(東日本大震災) ~ 一 本 の 薔 薇 ~ 中岡 ユリ
平成23年/2011 No.22 掲載
3.11(東日本巨大地震)は、一瞬一撃で時代を変えてしまった。たとえ表面上社会は復旧再開発を辿っても、大地震の破壊したあと、大津波の犯した崩壊あと、更に原発事故も加わり、放射線物質の広範囲飛散等々、次々不安の原点は限りなく生じる。
被災地の犠牲のもっとも大きいものは、人生を死に奪われた多数の人間。又生命だけはあっても人生の進路を突然どこへ向けたらよいか判らない人達‥‥その事実は、宇宙衛星を通して、全世界の人間達が映像を通して目のあたりみつづけている。21世紀の人間社会先端科学は宇宙へ伸びたにもかかわらず “人間弱きものょ„ を一様につきつけられ、解けぬ不安を心の奥底にそれぞれがどうしたらいいかわからないという一般人の答も多い。
高齢者の私は被災地へのボランティア活動もできない。テレビ映像で現実をみつめている以外知恵も力も湧かない。友人達の安否を確かめたり‥‥‥‥あとは救済募金や物資送りとて、貧者の一灯みたいなものだった。痛みをわかちあっているなど恥ずかしくて言えない。あまりにも大きすぎる惨事の痛みだ。
3.11から3ヶ月経った6月、全国紙M新聞の夕刊に思いがけない寄稿文を発見した。“東日本大震災3ヶ月に寄せて„ とあって大文字でのタイトル『かすかに香る、未知なる希望』 私は夢中で文章の中へのめりこんだ。一読、二読‥‥唖然としてひと休み、又繰返し読んでしまった。
丸山健二さんという作家の一文だった。東北地方出身の作家ということは略歴で判ったが、私は残念なから御名も作品もはじめてだったが、この6月13日夕刊のエッセーは、今後生きてる限り忘れないだろうと今も思っている。文章の力が時に思いを越えて読む側に伝わるいい例かも知れない。現場に立つことがなかった私が、地震災害のあとから、一本の薔薇を通して3.11の深く傷ついた心の傷あとを現実として受け入れざるを得なかった。
文意の前半は作家が被災地の現場に立って、光と異臭と土埃の中に身を置いたとき、素晴らしい生命も結局は死の勝利で終ってしまうのかと虚脱感と無力感におそわれたと、自分の姿を記している。次に、この作家がこの地に縁あり過去を知っていればこその高台の公園、つまり被災をまぬがれ残っていた自然の風景、草木、学童、飛び交っている鳥の声に、眼下の被災光景が錯綜して自暴自棄の答えにしがみついたとある。風景が私の脳裏に灼きつく。
丸山氏が歩み続け中洲のような空間に至ると、大津波にずたずたにされながらも原型を保っている礼拝堂らしい建物がぽっんとあった。魅せられて近づいてみた。礼拝堂の外郭だけはしっかりと残っているが津波は内側を抜けていったのであろう。内部はがれきだ。礼拝堂らしい建物という他はない。見渡すのが辛くなる。想い出の中で死んでいく事も叶わないこま切れの命と記している。
そして、視線を足もとに落とすと、塩分だらけの土の表面になにか植物が突き出している。庭造りが趣味の者ならわかるだろうが、関心のないものにはそれがバラだとは気づかなかったにちがいない。もしも津波が来なかったら、礼拝堂を想像するしかないその建物の前庭は、一面にバラの花と香りで埋まっていたことだろう。「全滅だ」とつぶやいた途端、数個の蕾をのこしている一株を発見した。よくよくみると、まだ生きており、それが証拠にひとつは花びらを開きかけていることだった。なおも顔を近づけると、かすかに芳香が感じられ、それが未知なる希望の匂いであることを直感しないわけにはいかなかった。と綴られている。文章の終わりは、今は幻のバラ園と化した荒地のかたわらで、三人の男が畑には適さない土地と承知しつつ耕して、ジャガイモを植えていた。エッセーはそこでぷつんと終っている。この現実の光景はもし私がその現場に立っても、やはり立ちつくすだろうと思った。
一株のバラの樹がヘドロのような大地の盛り上がりに横たわりながら生命をつないで花を咲かせようとしている。多分花は開くだろう。何色かわからないが、花片は風にかすかに呼応し誰にもみられなくても萎えて、散り時に生命終るだろう。私の脳裏に一枚の風景画がインプットされた。礼拝堂のイメージは文中にあった紙上の写真、みたわけではないのに、埋れ樹の蕾バラの姿が記憶鮮やかに完成してしまった。もちろんとり出せない絵だけれども‥‥‥。
近頃私は体調の悪さもあって、わが家の鉢植バラたちの面倒は俗称“バラのお父さん„と夫を奉って、日々の水やり、鉢かえ、肥料、剪定もすべて任せ放しの春だったが、なんと不思議!春の花期には思いがけなく見事に開花した。バラそのものの持味といったらいいのか、基準値といったらいいのか、近年小振りの花になっていた老樹ジャクリーヌ・デュプレも、挿木をした若樹までが初花を持った。老樹は幹こそゴツゴツだが、花は枝々に大輪重たげに咲き、特徴の花しべも昔ながら私好み満足の花芯だった。真紅の花“熱情„は色が好き。“ローズヨコハマ„は濁りない黄色が引きたて役。名花揃いのバラ会員の皆さんは失笑されるだろうが、私はコンクール・バラに熱中時代も、薔薇シンドロームと冷やかされた年月もあったし、HTの名花コレクション時代も、原種バラのコレクション時代もあった。とはいえ本人は、バラ中心の生活でもライフ・ワークでもなく歩いてきたのだから不思議!! しかもバラだけは刺されても、刺された自分が悪いのだと思うし、バラは自己防衛をしなければならないから進化しつつも、独自の棘を備えているのが自然の体系だと思う。それを人間が自分達の意に都合よく改良という美言で形をかえてしまったりする。棘なしは扱いは良いが、茎の太さが弱々しくなるものもあるし、私は棘のある茎も魅力に思う。巨大棘をもっている薔薇に刺されたら頭の中心をつきぬけていく痛みに悲鳴を自然にあげることもある。だが痛みの記憶だけで憎しみも険悪も生れない。勿論、21世紀の今日、原種の薔薇から何十万種とか(正確に私は覚えていない)が万国共有の登録薔薇。新種つくりの薔薇人口も存在するのだから、人間と植物の智と生命力の見事な合体が薔薇の女王の座を安泰にさせている。然し時代が一瞬に自然の猛威に崩壊された現実に出会うと、薔薇一輪一輪に対しても、人間のほうが読みとらなければならないことが多種多様にあるようだ。3.11から私は学んだ。薔薇の備えもっている気品、華麗、ロマンすべて魅力だが、近頃のように、人工の公共園の庭園に何万本とか設計図通りに植込み、観客に歓声をあげさせ、感動や喜びを与える。それはそれでいいことだが、与えることと、いつくしみ愛することは少々ちがうように思う。薔薇同好会の会員でも、様々な苦労をしたり、楽しんだり、薔薇一本一本育てながら薔薇の現実にふれあってきた。共存は尊い。個人の力でそれぞれの生活空間の中で育てる。それが咲いてよろこびをもたらす。ただ観賞にもっていくだけではない。今日すべてが秒速で先へ先への時代であっても間(ま)というゆとりが欲しい。薔薇の生命や風情をいとおしむ心情が失われつつあるように思えてならない。
新種の薔薇をみていても、「いいねぇ」「きれいかぁ」で賞でるのはまだいい。「みた?」「みたょ」で終わりでは哀しいと思う。第二次世界大戦の犠牲者、アンネ・フランクの賞でていた薔薇が父親の手を経て“アンネ・フランク„という薔薇として、世界中に広がったのは、もう近い昔になってしまうのかもしれないが、今年は「スーヴニール・アンネ・フランク」という新種の薔薇が秋バラまつり・フエスティバル他、植物園などにお目見えし、報道され、明るい話題だった。新しいバラのアンネ‥‥それは私世代戦中派からみると、まさに復活だ。アンネの魂の甦りバラとみてもいいだろう。明るく可憐な花姿を新しいスーヴニールとすることも素敵なことだ。思い出は悲しみ嘆くことだけではない。人生からみるとながいながい30年、40年が当たりまえのように時をかけて新しい生命の薔薇は生まれる。今は薔薇も人も待つことに、被災の歴史を負って目覚めなければならない時期のようにも私は思う。
今年も終わりに近づいた。福岡ばら会は六十周年記念の年だ。色々な苦節を越えて、薔薇人達が薔薇人育成も兼ねて、今日まで歩んできた年月である。繁栄期の世なら“50年プラス10年ですょ„と声を大にしての慶賀なのだが、3.11以後の痛みをともなっている今年である。それに、会に貢献した方々達が多数物故者である。それだけに、今、生命あっての六十周年は共に慶びを共有することに意義がある。3.11の文章、丸山健二氏のお言葉を借りれば「かすかに香る未知なる希望」を未来へ継ぐ薔薇と人との絆にして愛ほしくより美しく保ち歩みたいと思う。
<随想余話>終わりにひとこと。
私共夫婦、今年結婚五十年記念年です。不思議な偶然は、結婚披露宴の引出物にそえて、私は職業画家でしたから、色紙に一輪のバラの蕾を描いたものをそえた。そのバラが人生のいつ花開いたか否かはわからないし、まだ咲きつづけているかもわかりません。フォークナーの詩の中から一言。“人生に一本の薔薇を„被災地の薔薇という思いがけない文章との出会いで得た薔薇の生命の形、より強い生命の絆を、薔薇人未来と薔薇と共に続いていくことを祈るのみです。
バラ会の諸先輩会員の皆さまにはいつもお世話かけっ放しです。本当に有難うございます。
手折らずにみつめていたい秋の薔薇 ユリ
引用資料:毎日新聞 2011年6月13日 夕刊 丸山 健二 「かすかに香る、未知なる希望」