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ローズ・ふくおか アーカイブス 1991-3「バラが散った」

バラが散った   原田 民雄
平成3年/1991 No.6 40周年記念号 掲載

 福岡バラ会の研究会と家内の詩吟教室とが重なった。詩吟教室は早目に失礼して12時頃の特急バスで行こうということになっていた。11時30分頃には帰れそうと第1回目の家内からの電話があり、私は出掛ける準備をして靴下をはきかけたところに、第2回目の電話がかかって来た。靴下を履きかけたまま、受話器を取ろうとして、足元が狂い、電話器と受話器を抱いたまま、土間にスッテンコロリンと転げ落ちた。受話器の向うで、家内のモシモシ、モシモシの声が聞えるのだが、足の付根が焼けつくように痛く起き上がることも出来ず、転がったままでした。家内も異状に気が付いたらしく、タクシーを飛ばして帰って来た。ビックリ仰天、早速上田先生を呼んでくれた。私の姿を一目見るなり股間節骨折と診断さ れ、救急車の手配をして下さった。救急車はすぐ来た。係員の二人は私をソッと乗せて下さって、バーカ。バー カ。と警笛を鳴らしたら、(私には、馬鹿、馬鹿と) 近くの筑後川温泉病院へ運ばれて行った。

 レントゲン検査があって、足首から腰の下部までギプ スをはめられた。かくして、神に祈りたい気持で痛みと苦しみの生活が始まった。家内はこの事故の責任を感じてか、ベット横タイル張り床に敷布団・毛布を持ち込んでの看護が始まった。私は私で、用便を足す間、ギプスの包帯巻き替えの間、全く血の涙で、身動き一つ出来ない寝たままの闘病生活で、死ぬ思いの毎日でした。もう一つ辛いことは煙草が吸えない事だった。レントゲン室の技手を買収して煙草を1本貰い、最後の最後の吸口のところまで吸って満足したこともあった。この状態の闘病生活は約1ヶ月余りも続いた。

 一般病棟に移される頃には家内も疲れ果てたのだろう、だんだん冷淡になり、朝夕の食事の時だけ来るようになった。私もその方が事毎にガミガミ云われるより楽だとも思った。しかし半面淋しくもあった。いくらガミガミ云われても、奥方様とは良いものだとしみじみと感じた。雷女房もやはり捨てた物じゃ無い。アハハハー。

 かくして三ヶ月。両杖をついて歩くことが許された。サァー天下晴れての喫煙室通いが出来るのが嬉しかっ た。三ヶ月が過ぎると、三日飲んで二日休んだ晩酌が恋しく、寝る前に一つやりたくなった。と云うのは、隣のベットの人が夜になると雷のような寝息をかくので、なかなか寝つけなく、ぢゃー、養命酒で行くかと、養命酒なら薬だから、との自己判断で家内に運び込ませて飲ん だが、コップ半分位い飲んでも、ポッともしない。家内は家内で、たった5〜6日で空瓶になっては大変だと、例によってガミガミ。そこで、養命酒の空瓶に酒を入れて持ってこさせた。こう書くと到って簡単だが、脚が悪いので出来ないが、七重のヒザを八重に折って、煙草の時も同様、家内の顔を見ては、手を合わせて、数日がかりの懇願の結晶だった。家内をなだめ、すかし、おどし、の悪戦苦闘でした。それでも歩けるようになってからは、私一人が歩ける5人部屋に入れられ、他の4人は寝たっきり、毛布や布団の世話から、看護婦代りに、便器の取り替えなど、一晩に4〜5回、世話をしていました。自分だけが歩けるのだから当然の事だと思っていましたが、私が退院の挨拶をして廻ったら、皆さん、涙を流して別れの言葉も言えない程でした。こんなに感謝されていたのかと、その人達の顔を見て、思わず涙が出て来ました。

 以上が私の入院生活の体験談です。この細い体も、案外長持ちしそうですよねぇ。

うちの宿六(其の13)   原田 ハル子
平成3年/1991 No.6 40周年記念号 掲載

 詩吟教室からもう少し早く帰れそうになったので2度目の電話をしましたら「ハイハイ」と云う声まで聞こえましたが其の後は受話器からガチャンと云う音と共に宿六殿の、之は天下の一大事とばかり、タクシーを呼んで大急ぎ帰りましたら宿六殿は土間に電話器と受話器を抱いて転げ落ちておりました。

 さあ大変、掛かりつけの上田先生に電話して後は宿六殿の記述通りです。只云える事は、宿六殿より電話器の方が強かったと云う事です。たぶん電話器は宿六殿と心中はしたくなかったのでしょう。今では冷静に考えられますが当時は気が動転していて、私がその電話を取り上げて上田先生や救急車に電話が通じたのですから今考えると笑い草ですと書いたら宿六殿におこられるかも知れません。

 しかし其のあとが大変、宿六の付添い看護は当然私の全責任ですから、ほんとうに夜も寝ずに看護を致しましたが、困った事は「ばら」でした。 私は今までばらの手入なんか全然した事が無く咲いた花を人に差上げるのだけが専門でしたので、病院の看護婦詰所には花を絶やしませんでした。しかし消毒は宿六殿の書いてくれたメモで忠実に致しました。しかし秋の剪定には困りました。3分の1位の所から切る様に云われましたので其の様にと思ってばらの木の前に立ったのですが、いざ剪るとなると戸惑うばかりでした。

 退院をして我が家のばらを見て宿六殿は大きな溜息ばかりしていましたが、もうばら作りは止めようと申しますので、私は今止めてどうするの? 毎日毎日コタツの中で本ばかり読んで暮らすのでしょう。運動不足で早死にするだけですよ。現に入院中4ヶ月余でベットの上で読んだ本は120冊以上でしたよ。昭和八年頃の佐々木邦の「地に爪跡を残す者」から、菊池寛の「心の日月」他、推理ものは殆んどで、まだまだ残りの本が1000冊以上もあります。全部読み終わった時は、あなたの体の方が一巻の終わりですよ。と言ってにらみつけましたら、宿六殿、シュンとなって、『それぢゃ、宇部ばら会と日本ばら会だけは退会しよう。とてもこの足ではばら展には行けそうにもないから』とのことで、妥協が成立致しました。

 昨年の春まであんなにばら展気違いだった宿六殿が、こんな弱気になった一端は私にあるのかと今更ながら、あの日の二回目の電話が宿六殿のばらに対する気持をこんなに気弱に変えたのかと、ジーンと胸を締めつけられる思いが致します。