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ローズ・ふくおか アーカイブス 1984-3「バラを遊ばせる」

バラを遊ばせる   平田 はつ子
昭和59年/1984 掲載

 私はバラを遊ばせる事の出来ない人間である。私自身遊ぶことの無器用なところがある。

 こう言うとすごく勤勉な様に聞えるかもしれないが、 中身はすごく怠け者である。これを人のせいにするならば私達戦中派の共通な傾向かもしれない。

 バラ作りの先達が、「一番花が終ったら秋の剪定の位置だけを考えて花を遊ばせるように」と言われた。早速心掛けてみたのに一番花より稍と小ぶりだが形の良い花形を見ていると、もう切らずにはいられなくなる。

 フラワーピンチの筈がついつい五枚葉一枚つけて切ってしまう。三度に一度はフラワーピンチしょうと思い作 ら、矢張り切ってしまう。玄関から家中バラだらけになっても、まだ切っている。あたかもバラが私に切られる事だけを望んでいるかの様に。数年間バラを作ってみて 自分が専ら切花のためにのみ、バラを作っていたのに気 がつく。気がついた時は樹高は高く、シュートは出ない。 ステムも何年前のか計算してもわからない程だ。

 一回に二十五本咲く、三十本咲く、と只々花数ばかりを子供の様に数えて嬉んでいた様だ。今頃シュートが出ないとグチを言っても、もう遅いのだ。すっかりバラを怒らせてしまった。バラを庭で遊ばせて、自分は家の中から見ても良い筈なのに。切らないとどうも胸のあたりの具合がおかしいのである。どうやらバラを切るあの鋏の音にでも魅せられているのかも知れない。バラを身近に置いて終日見ていたいと思うのは私だけではない筈である。だけど私だけがこんなに切って切って切りまくるのは何故か、それはバラに対する思いやりの無さである。

 バラを遊ばせるどころか遊んで貰っているのは専ら私の方で、何かとバラに事よせて遊んでいるようである。 花が無ければ無いで、新芽の伸び様を何分間も只ボンヤリと眺めて、もうやがてその先に咲くであろう花を想像しているのだから世話ない。

 バラを遊ばせると言うのは、自分が遊んでいては遊ばせられない。子供のお守と同じである、自分がよそ見をしていては子供が怪我をしたりするのである。病気をさせない様に、虫に噛まれない様に、風で吹きとばされない様に、乾燥させない様に、バラをお守りするのは大変である。私は初め、「遊ばせなさい」と言われた時放っておけば良いという風に直感したのだけれど、遊ばせる事は放任とは違うのである。 自動車のハンドルにも遊びがある、台所の換気扇にも遊びの部分がある、遊びがなければすり切れてしまう。 バラに可哀想な事をした。今度からはバラの身になって 少しは遊ばせてやろうと思う。

 今年の夏は自分の馬鹿さ加減を思い知らされた苦い夏であった。