福岡バラ会と父 猪野 又太郎
平成23年度/2011 第22号「福岡バラ会創立60周年記念号」掲載
明治時代より父と母はバラ栽培を趣味としていたものの、戦争中は食糧確保のため、殆ど畑となっていった。然し北側の30坪の土地は頑として、野菜づくりは許さず、急迫する戦局の中でもバラを大切に育てていた。
終戦から六年、漸く食糧も豊かになり、世の中もやや落ち着きはじめた昭和26年に、バラを愛する人々が、大濠の赤司広楽園に集いはじめた。今は大半故人となられたが、大守加津馬氏、赤司新六氏、徳永時雄氏と相はかり、福岡バラ会が昭和27年スタートした。
父は推されて初代福岡バラ会の会長となり、昭和39年他界するまで12年間バラ会の発展のため尽くした。
特筆すべきは福岡玉屋の春秋2回の「バラ展」である。今秋平成23年のバラ展が会場こそ異なるが第120回というから、なんと60年間も続いているイベントである。バラ会の出品受賞者に与えられる「猪野杯」も当初はあり、春秋のバラ展に飾ってあった。
その間、誠文堂新光社の「バラのアルバム」に「暑い地帯のバラ作り」と題してバラの植え方、施肥、灌水、マルチング、日覆、病虫害対策など、絵、写真入りで寄稿している。(昭和30年11月10日刊)
また、タキイ種苗株式会社の「バラ作り方講座」に「6月の管理」と題し、病虫害の防除、花の観賞と整枝・施肥・交配・芽接・挿木・不良株の交替など述べている。(昭和30年8月5日刊)
当時「私の好きなバラ」というバラ界一流の栽培家の寄せ書きを読んでみると、父は下記の通り記している。
◎ 花容・色彩・花付・花持・樹性・葉など申し分のない名花として第一に推すのは「ピース」。
◎ 「コンフィダンス」は花容・色彩・芳香・間然とするところがなく、品格ある名花である。
◎ 「マグレデイース・イエロー」は柔らかい黄色とすぐれた花型で黄色花中第一と思う。
◎ 朱紅色、剣弁の巨大輪である「ラダール」は目ざましく、かつ強香があって、色もあせないところがよい。
◎ 「チャールズ・グレゴリー」の朱緋色と底黄の色彩は鮮明をきわめて、たとえようがない、蕾より八分咲きまでがおもしろい。
小さい時より、私はバラの消毒、暑いときの虫とり、小耕、施肥、水やりなど、約600本のバラと20年近く、父の手伝いをしたが、5月中旬に一斉に開花するバラの美しさは栽培する人ぞ知る喜びであろう。
花のシーズンに、朝毎に咲いてくるバラの中にあった父は戦前戦後を通じて、誰よりもバラを愛し、バラの花をめでるローザリアンであったと思う。花のシーズン、街々でみかける大輪の「ピース」を見ると父が偲ばれ、明治39年頃から昭和39年まで約60年の長きにわたり、花を楽しんだ父は九州最古のバラ愛好家でもあった。
次に掲げるのは、父が他界して一週間後、夕刊フクニチに「バラに打ちこんだ60年」と題した父の記事である。
夕刊フクニチ 昭和39年3月25日の記事
“遺言・・・花を頼む 猪野元市長の死”
ライオンは百獣の王という。とすれば、バラは百花の女王と言えないだろうか。それほどバラは美しい。そのバラに打ち込んで60年。人生の大半をこの花にささげた福岡バラ会会長猪野鹿次(福岡市桜ヶ峰、86歳)が昭和39年3月19日死んだ。築上、三井、筑紫の各郡長、飯塚町長から初代飯塚市長という経歴の持ち主でありながら、「死の病床でさえ、バラを忘れなかった。これは心から花を愛した一人の男の物語」である。
葬儀は21日午後福岡市櫻ヶ峰の自宅で行われた。生前の氏の功績を表すにふさわしく、しめやかだが盛大であった。吉田茂日本バラ会会長や安川第五郎氏をはじめ、有名人の花輪がキラ星のように並び、氏を偲ぶ弔辞は夕暮れまで続いた。
そんな中で、ひときわ参列者の感動を呼んだ弔辞があった。
「会長あなたが精魂傾けた福岡バラ会は、いまやっと地に根をおろして活動を始めたところです。会員もふえ、これからというのに、父ともたのむあなたを失った会はどう進んでいけばいいのですか。日本最初のローザリアンの一人である会長。会長が広く九州人に植えつけたバラを愛する心は決して消えないでしょう」 福岡バラ会太田副会長の弔辞から“戦争のむなしさ 花にひかれる”
猪野さんとバラの結びつきは古い。明治30年代、猪野さんが日露戦争に従軍、帰国してからである。
当時、日本では東京、横浜に在住した外人がつくる程度。もちろん九州には見ることもまれだった。
だから福岡市にバラがあるーとのうわさは、日本人より外人の間に行きわたっていた。九州に入る外人は殆ど猪野家を訪れたという。「異人といえば、当時は近寄りがたいものでしたが、バラを愛する人ということで少しもこわくなかった。民間親善の草分けでしょうか」愛する夫を失って、いまは病に伏す利夫人(77歳)はこう述懐する。
「バラはみがかなければいい花は咲かせない。だが枝1本の剪定、ひとにぎりの肥料でも、その効果は必ずあらわれる」生前の猪野さんはよくこう話したという。豪放な半面、堅実な氏の性格にピッタリだったのかもしれない。だが、猪野さんに最も親しかった人達は「日露戦争に従軍して、人間の争いのみにくさ、むなしさを実際に体験し、花の世界にひかれたのではなかろうか」とその奥にあるものを指摘する。
日露戦争後、利夫人と結婚、福岡県庁で一介のサラリーマンとなってからも、猪野さんのバラ作りは続けられた。というより、それは猪野さんの生きる目標の一部になっていた。
年がたち、築上郡長、三井郡長と要職につき、住居がつぎつぎと変わっても、忙しい公務の合間を利用して、猪野家にはバラが絶えなかった。しかし新種をつくり出して脚光を浴びる華やかな育種家ではなかった。金のために人をつかって花をつくり、生活の資にする園芸家でもなかった。育ちざかりの子供5人をかかえて苦しい時期もあったが、たとえ1本でも、バラを金に替えることは決して許さなかった。だから人の目を見張らせるようなバラは猪野さんの作品の中にはない。
ところが長いバラ歴の中で、たった一度だけ猪野さんを感激させたことがある。大正初年、三井郡長当時、久留米大演習で久留米においでになられた大正天皇の宿舎を、猪野さんのバラが飾ったことだ。
天皇のおほめの言葉を侍従から伝え聞いた猪野さんは「わたしのバラが天皇のお心を慰めた」と利夫人と手を取り合って喜んだという。
“新種に買い手 純粋ゆえの絶交”
またこんな話もある。福岡バラ会員の間で「ゴールデン・クライマー」事件と呼ばれている。昭和30年、猪野さんは当時評判の新種ゴールデン・クライマーを手に入れ、30本の挿し木に成功した。戦後の混乱期が過ぎて、ようやく人々が心にゆとりを取戻しかけたころ、新種はひっぱりダコ。福岡市の大濠の花園「広楽園」を経営する赤司新六さんが「売ってあげましょう」と持ちかけた。温厚な猪野さんが烈火のごとく怒った。
「バラを食いものする人間と見るか」赤司さんは早々に退散したものの、数日後そんなことを知らぬ福岡バラ会の会員だった徳永時雄さん(佐世保市大和町)は「みごとにつきましたね」と、くだんのゴールデン・クライマーをほめたのがいけなかった。 「赤司とグルで売らせようとしている」と思い込んだ猪野さんは、徳永さんに「出入禁止」を言い渡した。
一方赤司さんは「他人にまで迷惑をかけてすまない」と数回詫びを入れたが、門前ばらい。あまりのかたくなさに、ついにいきり立った赤司さんを会員全部が集まってなだめるという騒ぎまであった。
その後、互いの誤解は晴れたが、この事件の一部始終を見てきた大守加津馬さん(福岡バラ会会員、福岡市祖原)は、こういう「かたくなまでに純粋でした。バラにそこまで打ち込めるあの人がねたましくさえ見えた」。
その猪野さんもいまはいない。1月末尿毒症で倒れ、3月19日永眠した。3月10日、意識がかすかにあって入院するその日、猪野さんが最後に残した言葉は「バラの肥料をやってくれ、1株に片手半分ずつ、あまりに根に近づけないように・・・」
1年中で最もバラの少ない3月、会員が全九州から集めて仏前に飾ったバラが香煙にかすんでいた。