「ばら」との出会い 末松 慶和
昭和62年/1987 No.4 掲載
私が「ばら」と出会ったのは昭和2年か3年頃であったと思います。それは父がジュリエットと云う樺色の中輪で強い芳香を放つ鉢植のばらをテーブルの上に置いて、 客と共に花に興じていた姿でありました。大正12・3年頃から猪野鹿次氏(当時筑紫郡部長)と親しくして、ばらの話をしたり育てたりしていた様であったが、私には小学校の一年生位でそれ程印象には残っていません。そ の後福岡市郊外に転居し、白のハトヤばらのアーチの門を作って貸家住いではあったが、ばらの家と稱されていたのを憶えています。昭和3・4年頃には庭には10本程度のばらを植えて楽しんでいたようでした。私も父につれられて久留米の赤司広楽園に何度か伺ったことがありました。その後中学・高校・大学まで父は長く病床にあったので、このばらを維持するのが精一っぱいで、ばらの周囲を耕して油粕を施肥する程度でそれ程関心もなかったのです。
父の歿後昭和29年に現在の太宰府市国分に住むことになりました。畑地が広くて野菜や菊・ダリヤ等作ってい ました。丁度その頃当時の猪野会長(S.27年~39年) や原資文氏の勧めもあって福岡ばら会に入会させてもらったのです。昭和32年頃ではなかったかと思います。最初は可成り熱心にやって、ビルゴの盛り花で最初の入賞を載き次いでコンフィダンス・ピース・クリムソングロ ーリー等昔のばらで地賞・天賞を受賞し、母も妹も入会する様になり、母も老後を楽しめる様になったのです。 切り花を近所の方にさしあげたり、接木をしては友人に配布するのが楽しく随分熱を入れていました。
自分の勤務が忙しくなりましたが、一寸暇を探がしてはばらの手入れをしては育てる楽しみを味わうことが出来ました。病害虫の駆除、病菌特に黒点病・ウドン粉病の予防に追われましたが、いずれも早期発見で管理に慣れて来ました。本職の多忙のため作寸本数も200本位から50本位に縮少しました。昭和50年12月原会長(S.40年~50年)の歿後、太田嘉一郎氏も埼玉に転勤中でしたので不肖私が会長(S.51年~52年)を勤めさせて頂いたことがありました。然し昭和53年に私も愈々多忙になり、太田氏も帰福されましたので、相談の上玉屋の社長故田中丸善輔氏を会長(S.53年~61年)にお願い致し太田氏に副会長を引受けて頂き今日に至りました。福岡ばら会が九州山口ばら懇話会・日本ばら会とも密接な連絡が計られ、本会が九州山口ばら懇話会の中心的存在となり、日本ばら会においても福岡ばら会の存在を鮮明にするような活躍が出来るようになりました。これも一重に田中丸会長を中心とした太田副会長を始め福岡ばら会のメンバーの諸氏、就中婦人部の活躍は実に大きかった様に存じます。今後専門的ばら作りの大家太田氏は九州山口ばら懇話会・日本ばら会を中心としてローズ・メーカーとしての研究的特性を発揮されることと存じます。
今回前会長の御逝去の後御令息玉屋デパート専務取締役の田中丸善彦氏が会長に就任され、突然私が副会長に推され引き受けることになりました。果してその任を勤め得るかと案じましたが、永い間親子三人、本会の御世話になって来ましたので乞はれるままに、幾らかでもお役に立つならばと云う気持でいます。
ばらに魅せられて60年とも云えるでしょう。本年3月初旬に隣りの韓国にゼミの学生をつれて研修に出かけ、幸い38度線の国境即ち韓国民族分断の現場板門店を訪れる機会を得ました。その節この非武装地帯の建物の外の斜面にキチント藁筒で覆われたものが植えてあったのでガイドさんに尋ねると「ばら」とのことでした。戦争の終っていない寒々とした(当日-6°C)この地で平和を求める暖かい心温まる思いを禁じ得なかったものでした。1946年メイヤンの名作ピースが発表された40年前を偲び世界平和の到来を願う生きる人間の願いをひしひしと感じさせられました。周囲の低地は一面氷で張りつめられた、この寒い国境でもこうして「ばら」を咲かせようとする他国の人々の心を察し、平和や美を求めようとする人類の願望に触れた思いでありました。
人々が幸わせを求め平和を求める一つの姿を私は「ばら」を愛し育てる姿に見出せるのです。「ばら」の花の命は確かに短い。然し精一ぱい奇麗に咲こうとする姿は美の極致と言えるでしょう。それを求めてばら愛好者は工夫をし、努力をし、生活を楽しみ、生の充実を続ける。私はこの様な人々の輪が拡がることを願って止みません。