負け犬の遠ぼえ 原田 民雄
昭和60年/1985 掲載
一つ習って二つ忘れる老の道。六十でポンコツ、七十で恍惚、八十で骸骨。
私もそろそろお迎えが近くなりました。
家内 「洗面所の水が洩れて居ましたよ」
私 「ハイ済みません」
家内 「電気コタツは忘れずに切って寝てね。朝までつけっ放しよ」
私 「すみません」
之がほとんど毎日の家内の朝の挨拶替りで有る。 夜はもっとストレートパンチが激しい。
家内 「お父さん。風呂場の電気消し忘れとろうが」
私 「あ、忘れとった。ごめん」
家内 「ほら煙草の灰。そこに落ちたよ」
私 「どうもどうも毎度の事で済みません」
毎度の事乍ら少々腹だたしい。たまには家内も失敗をするので其の時は鬼の首でも取った様に、それっとばかり私が食ってかかるのだ。家内「すみません」と一口はあやまる、だがこちらは日頃のダン圧が身みしみ込んで居るので此の時とばかり一セイ射撃を開始する。所が敵はさるものひっかくもの、 こちらが三八式歩兵銃に対して、重機関銃で対抗するからたまらない。
家内「私がたまに一回位失敗したって...あんたは此の間にどの位い失敗をしたの...」と最後の爆弾まで落す。之で一巻終りで有る。あとは私が降参の白旗を上げるだけで、私「どうも済みませんでした」で終る。どうもいまいましい限りで有るが泣寝入りで有る。
つい此の間、此の一線を乗りこえて、最後の攻撃を仕掛けた。 私「そう云ったって俺が我が家の生計の七十五パーセントは出して居るぞ」と爆弾投下を試みたら、敵はカク弾頭つきのミサイル攻撃をしかけて来た。
家内「私は扶養家族です。百パーセント食べさせるのが主人でせう」と来たもんだ。だから夫婦の争いはほどほどにして置かないと最後には手痛い反撃を喰うのが関の山だ。
私は久留米市の山本敏枝さん方に時々バラの御手伝いに行く。御主人は九州女子高校の英語の先生だそうだが、敏枝夫人に良くグズグズ文句を云われて居られる、奥さんのやられる事が気にいられない事の文句らしい。そうすると敏枝夫人はしばらく御主人に云わせておいて、最後に三言四言でヒンヤリ押へられる。
其の後は御主人と二人だけ成った時。「先生どうせ喧嘩をしたって奥さんに負けるだけでせうが。私と同じで、勝目の無いケンカは始めからやらない方がましではないですか」と私からお話を聞いたと敏枝夫人に洩らされて、それから負け犬に或らない様に努力されて居るらしいと敏枝夫人が私に笑って話された。「負けるが勝ち」之が私の夫婦間の人生哲学で有る。そして五年に一回か十年に一回位いのカンシャク玉の原シ爆弾を落すとカーチャンなんか一ペンでふっ飛んで、地にひれ伏す。
エッヘヘヘ、之読んだら我が家のカーチャン怒るだろうなあ、其の時ゃ例の済みませんで済ますさ、それでも怒りがとけ無きゃ合掌して頭を下げるだけだ。
但しバラ展だけはそうは行かない所が私の最大のなやみだ。いくら下げたって花が悪けりや落選だもんな....
あゝ、春よ来い来年こそ良い花を咲かすぞ。小林正子さん、 何時までも柳の下にドジョウは居ませんからねと云いたい所だが、毎年柳の下のドジョウだから、すぐ小林夫妻の水も洩らさぬ共同作戦の網にかけられて仕舞う。
泣いて心が晴れるなら
なんでぐちなど云うもんか
負けてうつむく此の俺に
よしておくれよ気やすめは
終り