40周年のご挨拶にかえて 福岡バラ会副会長 釜瀬 眞寿子
平成3年/1991 No.6 掲載
思い出すままに美しいばら、ばらの魅力にとりつかれた“ばら人”によって福岡ばら会は40年目を迎えることが出来ました。ここまで育てて下さった今は亡き先輩の方々の御苦労をしみじみと思うこの頃でございます。それと同時に40年間も無償でデパートの会場を提供してくださった、玉屋さんに感謝する気持で一杯でございます。どこのばら会でも会場を確保するのに苦労しているのですから。
40年前に先代の田中丸善八社長様のご好意を軸に猪野会長、赤司さんのお父様方の御努力があったことと同いました。ばらのためなら、エンヤ・コリャの大守さん、 徳永さん、豊倉さん方と九州大学園芸教室の有隅先生、 川田先生等の技術面の御努力があったと伺いました。
またそういう“ばら人”の集まりの為に家庭を解放し、物質的にも何くれとなく援助を惜しまなかった前婦人部長の柿本さんのお人柄は、ばら作りの楽しみばかりでなく人の和の大切さを教えて下さいました。美しいばらを咲かせて “勝って奢ることもなく、負けて恨むこともなく、朝露に濡れたばらの如くにその優雅さを心の中に育ててゆかなければいけない” と教えられました。
もう一人の高村好雄様は、元騎兵部隊長らしく総てに几帳面で、審査の時も時間がくるまでは控室から一歩も出られず採点も非常に厳しくて、不平を言う人もありま したが厚い大学ノートにびっしりと書かれた “高村ノー ト” は、ばらの生理に始まって4冊目の栽培まで九大へ通われて研究を重ねた結果の集大成でした。お庭の一部に砂耕栽培もなさっておりました。私のところで毎月開く研究会の生徒、通称高村学校の生徒の中には、現在狭山ばら会会長の久原謙一氏を始め、今の福岡ばら会を支えておられる内藤己之助氏、渡辺賢彦氏などは今でもコンテスト台を賑わしていらっしゃいます。N・P・K の意味も解らない頃から手を取るように教えていただいたことは、私のばら作りの基本となっております。95歳で 亡くなられる迄時々足を運ばれましたが、古武士の風格の中にも暖かい思いやりを秘めておられました。これも何かの御縁だったのでしょうか。お墓が同じ処にありますので、いつも参らせて頂いております。もう昔話を伺うことも出来なくなりました。せめて思いつくままに大先輩方の楽しい裏話を一つ二つ御披露させて頂きましょう。
まず豊倉さん、朝起きるとすぐ歯を磨きながら畑に出ると根っこの皮をはがしダニ退治よろしく持っている歯ブラシでゴシゴシこすり始める。「気がついたら自分の歯もみがきながら歩いておるもんな・・・ハッハッハ...」貴公子然たる豊倉さんのなさること。
大守さんは、なかなかの酒豪とあれば又逸話も多い。 松の内が明ける頃になると大守さん豊倉さんのコンビが、4月の総会で会員に無料配布する新種の穂をひと抱え取りにみえる。ゴールデン・ゾンネを東京から取り寄せて、折角育てた枝を切られると早咲ゾンネのこと故、春のばら展には咲き終りとなる。何故かうちの畑は海が近いけれど、福岡のど真ん中のせいかどこよりも早く咲くので冬の剪定も3月上旬にかけてしなければなら ない。樹液が流れようと、どうなろうとばら展に花がなくては勝負にならない。よし!これはお二人を酔わせるに限る。とせっせとお酒をすすめました。やがて夜も更けて氷雨の降る畑にフラフラしながら出て行かれまし た。これなら大丈夫!切れるはずはないと思っていたら傘を片手にゆうら、ゆうらと揺れながら、大守さん曰く 「酔ってはいても手許は狂いませんよ」とばかりに根元からバスッバスッと切られたのには恐れ入りました。
このお二人とも定年後はかねて念願のばらに最良の土地を求めて家を建てられたのも束の間、山つきのせいか、「ベト」が出て大変苦労なさっておられました。何ともお気の毒でたまりませんでした。とうとう大守さんは千葉大学園芸教室まで診てもらいに行ったら「これはとても悪かベトです!」と言われて私にも見せにいらした事もありました。
その後、太宰府の近くの高雄台に新しく建て替えられて、美しい色の...高雄台...と言うミニを発表されまし た。ばら歴70年という大ベテランらしく若かりし頃「早稲田在学中に故郷から送られた下宿代もすべて、輸入のばら苗代に使い込んで弱りました」と伺ったこともありました。
徳永さんも、もの静かな語り口で、春苗を乾燥鶏糞だけで育てることを教えられました。早速実行いたしましたところ新しい砂地のせいもプラスしたのか、秋の定植の時には地上部は成株のように繁り又地下の白根の大きい事。直径30種以上の根回りとなってフサフサとした白根は砂にくいこみゆすぶっても砂も落ちないのには驚きました。現在でもその苗が一番大株となっております。 その後、土を選び堆肥も多く入れ肥料を利かせても、その苗にはかないませんでした。今では御子息が佐世保ばら会で活躍しておられます。
いつだったでしょうか楽しいお三方のお話に夢中になっておりましたら、台所の天ぷら鍋に火が入り大騒ぎとなったこともありました。丁度配達に来た八百屋のおじさんが台所で消し止めて下さいましたが、今でもそのおじさんには頭が上がりません。
このようにばらに魅せられ、ばらのとりことなった先輩の敷いたレールのうえを40年の間何事もなく通り抜けた訳ではなく、暗い時代もありましたがこの頃では研究会も明るくなって初心者も気楽に質問が出来るようになりました。又役員会でも何の気兼ねもなくものが言えるようになってきましたのは喜ばしいことです。
こうなれば本部展も引受けられると張り切っておりますが、昨秋の花巻大会のようにホテル全体が会場となって広々としたコンテスト準備室、休憩場、喫茶ホール、懇親会会場、はては寝室まで一つのビルの中で出来るこんな会場は望むべくもないことでしょう。次の日のお庭拝見の川村邸の凄いこと、土の中にはバーミキュライトがピッカピカ。直径2糎余りのベサールシュート・途中 シュートがニョキニョキ、根元は相当古いようにお見受けしましたが、まっすぐ伸びた2米余りの頂上には、そどおり姫、バーナビィ、ディクソンはもとよりブラッ ク・ティーまでが高芯剣弁そのもので驚きました。「井の中の蛙大海を知らず」とはこの事でしょうか。
やがて有名な、わんこそばを頂いてお別れの盛岡駅へと急ぐバスの中のことでした。昨夜の懇親会の巧みな司会ぶりといい、このガイドさん、ただのガイドさんではないと、聴き惚れておりましたところ、何となく哀愁をおびた声と思っていたら「あそこに見える丘のうえで、 高村光太郎さんが智恵子!智恵子!と涙を流して叫んでいらっしゃったのです。皆様も奥様を亡くしたら、そう なさいますか?」こんな処で不覚の涙を流そうとは、思いもしませんでした。ひたすら窓のほうに顔を向けてはいても。
私も5年前に最愛の夫を亡くしました。長い恋愛時代をこぎ抜けて結婚したのが21歳の時、56年のあいだ海のような大きな愛情に支えられて過ごした幸せが、あの日限り姿を消してしまったと言う事は辛いことでした。忘れようとしても片時も忘れることは出来ません。「ばらはお金がかかるけれども、僕は倹約して家内に続けさせます」と知人に語っていた事もあったそうです。そういえば隠しても隠しても、ばろ靴を履いて出掛けました。 それ程私のばら作りは大変だったのです。
10本が20本、果ては200本となりますと、自分の手に負えずすべて人頼み、80坪の庭の長さ12米幅2米半の畝を5本作りブルドーザーで深さ1米半に掘り下げ、トラック 38台の新しい山砂、15台の牛糞堆肥など、又雨や日焼け防ぎ施設など完全なコンテスト工場を作り大阪展、東京展と6年間を夢中に過ごしました。
我が道を行く妻を文句も言わずに、ただ伸び伸びとやらせてくれた亡き人をしみじみと思わない日はありませ ん。ばら作り35年、初めの13年はコンテスト、その間は出る杭は打たれるを充分に味わいました。「美しいばらを咲かせてなぜ厭な思いをしなければならないのか」と、疑問を持つようになって出品を止めました。それからは美しいばらと、ばら友に囲まれてお世話役に回り以来22年、花は悪くなりましたが大変楽しいばら作りとなりました。
その昔、大守さんと豊倉さんがなさったように40年たった今も変わらずに、会の為に何人かの方々が御自分の暇をさきポケットマネーを注ぎ込んで協力して下さいます。今日もまた研究会の指導も頂いております岩本良一さんが会員に届けるため夏の基肥を汗を流してトラックに載せていかれました。寒い年末の忙しいときも会員の希望とあれば一俵でも運んで下さいます。ほんとに頭が下がります。
福岡ばら会は、これから先も大勢のお力に支えられてより一層の発展をするように、あわせて玉屋さんも益々のご隆盛を遂げられますように心からお祈り申し上げま す。最後にお読みにくいところは80歳の老いのたわごととお思召してお許しをお願い致します。