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ローズ・ふくおか アーカイブス 1993「座談会一創立当時を偲んで」

座談会 一 創立当時を偲んで
昭和56年/1981 創立30周年記念号 掲載

  • 日時:昭和55年10月19日
  • 場所:玉屋会議室
  • 出席者
    • 田中丸善輔(福岡ばら会会長 福岡玉屋取締役会長)
    • 大守加津馬(福岡ばら会顧問)
    • 徳永時雄(佐世保ばら会)
    • 横尾宗敬(農水省課長)
    • 河田織一(農水省野菜試験場育種主任)
    • 有隅健一(鹿児島大学教授 農博)
    • 久村進治(福岡玉屋)
    • 末松慶和 (福岡ばら会前会長)
    • 戸次源造(福岡ばら会)
    • 柿本静枝(福岡ばら会)
    • 赤司広次(福岡ばら会)
    • 司会 太田嘉一郎(福岡ばら会)

司会福岡ばら会も来年度で満30才を迎える事になり, 来年秋のばら展は第60回と言う事になります。 先般田中丸会長から、創立当時の事情を知って居られる方は、他に転出されたり、或は、物故されたりして、少なくなっているだろうから、30周年を記念して、創立当時を偲ぶ座談会でも開いて、記録にとっとかないかんバイと言う様な御注意を受けまして、今回、此の様な座談会を計画したわけです。

 日本には,沢山のばら会がありますが、30年の歴史を 持って,いまだに,創立当時の情熱を維持しながら,健 全な活動をしている会は少ないのではないかと思います。 その点,私共は先麗の残された業績に本当に感謝してい る次第です。創立の発起人は,故、猪野初代会長と,今 年97才でいまだに健康そのもの、赤司新六氏、佐世保 に転出されました徳永時雄さんと,現在,会の顧問であ る大守加津馬さんの四人のお方で,また創立当時九大磯 学部の学生で、若い情熱で会の発展の推進力となられ, 其後,それぞれ我国の農業の分野で重要なお仕事をされ ている横尾宗敬さん、有隅健一さん、河田織一さんにも, それぞれ遠隔の地にお住みですが、遠路御参集をお願い し,会からは当時在籍して居られた会員の方々にも来て いただいたわけです。

 先ず会長の御挨拶から本論に入りたいと思います。

田中丸本日は御多用中遠くより御集りを頂いて有難う 御座います。昨年、どうしてもばら会の会長を引受けて 欲しいとの強い御要望を受け,御懇請もだし難く御引受 した次第です。

 御承知の通り私の方の玉屋とばら会とは、深い因縁が ありまして、ばら会発会当時よりいろいろと密接な関係を頂いているわけです。これは、福岡玉屋の前会長で、亡くなりました田中丸善八が非常にばらが好きで、これは単に美しいというだけではなく、ばらは不老長寿というようなことも言われて居り、そう言う意味と店がますます栄える様にと言う意味も含めて、ばらを店の花とし、すべてのデザインに使っておるわけです。そういう事で、 ばら会をしっかり加勢してやれと言う至上命令と言う様 なものがありました。営業部の方は、少しでも余計売りたいと言うことで特売場に使えたらと......そう言う事ではいかんではないか、店のイメージアップと言う意味からも盛大にしなければと......そういう事もあって、およばずながらも会長を御引受申上げて居ります。私も発会当時の事は店で聞いては居りましたが、どなたがどういう役目をして居られたかと言う様な詳しい事は、記憶に御座いませんので、いろいろ皆さん方からお聞かせ願おうと思います。どうか宜敷御願致します。

発会の経緯

司会お手元に大守さんが当時のいろんな出来事を記録された年表と、福岡ばら会の初期のコンテストのいきさつを書かれたものをコピーして差上げてありますので、それをご覧になりながら、昔を思い出して教えて頂きたいと思います。

 最初に昭和27年の1月にばら会結成の準備がなされた様で、年表を見ますと発起人は初代会長の猪野鹿次氏と、現在、会の顧問である大守加津馬氏、本日わざわざ佐世保より御参集下さった徳永時雄氏、赤司広楽園の97才の赤司新六氏の四人の方で、赤司さんは御高齢ですので本日は当会の庶務を担当されて居る赤司広次さんが代りに御出席になって居りますが、その辺の事を大守さん、徳永さんからお聞かせ下さい。

大守福岡ばら会の原点と申しますか,、これに関連して私は2つの点を考えて居ります。第1は、徳永さんとは職場が一諸で昵懇にして居り、お互に好きと言う事で意気 投合して居りました。徳永さんが、たまたま名古屋に出張すると言う事で、名古屋の遊花園と言うばら園とは私が戦前より親しくして居り、私が特に可愛がっていた戦争生残りのばらを送ったと言う因縁もあって、その遊花園に、余暇を割いて徳永さんが訪ねて呉れて、遊花園の主人が福岡には猪野さんと言うばら好きの人が居られると言う事を聞いて来たわけです。早速、手紙で御伺いする旨お願いしたところ、折り返し桜ヶ峯の陋屋でお待ちすると言う御丁重な漢文調の御返信が参り御自宅に御訪ね致しました。猪野さんはたいへんなお喜びようでした。

 斯うして猪野さんとは面識ができたのですが、私共は職場でのばらのサークルを作る目的で、猪野さんに御意見を御伺いしたところ、「そりゃ小さい。福岡のばら会を作って呉れ。そして、日本ばら会に負けんような会を作ろうではないか。」と言う事で、多分昭和26年の秋か冬の事だと思います。こうして福岡ばら会を作る事になり、それには第一にばら展をやらなけりゃならん。それには会場が要る。あれこれ話が出ましたが、何と言っても福博で一番格式のあるのは玉屋さんの他にはないと言う事で、丁度その時人間ドックに入って居られた当時の玉屋社長・田中丸善八様を、猪野さんと私と二人でお訪ねしたわけです。

 お目にかかるとき、猪野さんが私に「ばらの蘊蓄を全部さらけ出して懇願せい」と言って(笑)、それで私も猪野さんに助けて貰いながら、人間ドックに居られる社長を前にとうとうとしゃべりました。これはもう入社試験の様なつもりで(笑)、それで、「その会場なり催しの一切を玉屋さんが引受ませう。心配しないでどうか日本一のばら会を作って下さい」と即決で有難い御返事を頂戴して、それは大船に乗った様な気特で、小踊りして帰って来て徳永さんはじめ皆さんに寄って頂いて、早速福岡ばら会を始めると、始めるについては第一回のばら展を開き、ばら展の会場で会員を大募集して、それを決成の日に決めようと言う事になりました。それで、 その第一回ばら展の初日に77名の会員の入会があり大成功でした。全く玉屋さんのおかげと言う事です。その日、猪野さんのお宅で、ささやかな祝杯を上げさせて頂きました。

司会それじゃ、77名の会員がお入りになったのは、第 一回のばら展の時で...?

大守そう、それも第1日目です。

司会徳永さん、何かその当時の強烈な思出がおありになると思いますが?

徳永いやもう、今のお話、昔の思い出ばかりです。名古屋の中島遊花園に行ったとき、その頃は私は大守さんに弟子入りした許りで、あまり知識もなかったのですが、 知ったかぶりをして覚えている限りの品種名を言っりしました。そしたら2つ驚かされた事があります。その一つは遊花園のおじさんが凄く偏屈な人であることと、もう既にアメリカのばら苗が入っていた事です。3本ぐらい立った1mぐらいの苗です。私は対抗上、福岡の事も少しは自慢したいと思って、福岡には帝国ばら協会時代からのたいへんばらに詳しい大守さんと言う方が居て、 その方が、私の先生だが、そのお庭に戦前からの繁晴らしいばらがありそれに魅せられて、私は弟子入りしたと申しますと、「そのばらは何です?」と遊花園のじいさんが言うので鼻高々とブラジェ(註・Brazier 仏マルラン作 1936年)だと申しました。炎光色のチガーヌの原点みたいな素晴らしい花です。そしたら、遊花園のしいさんは吃驚りして、是非送って呉れと言うのです。どうして送るかと聞きますと、大根に突きさして送れと言うのです。(註・ビニール等が無かった時代としては、 穂木を送るには、まことに適切な手段と言えます。)

それで, ブラジェと言うばらは、その頃日本では絶種になっていたと思われますので、大守さんのが最後のブラジェではなかったかと思います。斯うして福岡ばら会が誕生したわけです。

当時の会員の動向

徳永その頃いろいろありましたが、一番熱心だったのが河田さんでしたネ。今は素晴らしい農水省の主任をされて居られますが、河田さんの様な花好きの人は少ないと思います。私も花キチガイでは人後に落ちませんが、河田さんはその上です。私が自分のばらを自慢したくて、赤司広楽園のお爺いさんに見て貰おうと思ってピースを持って行きますとネ、ばら会も出来る前で仲間も少なかっ たのですが大守さんが必ず来るわけです。河田さんは覚えていらっしゃるかどうか、丁度、お濠の横で出合ったとき、ダリヤの一尺以上もある大きなのを見せると言って持って来ているわけです。河田さんが私に、何処に行くのかと聞くので、このビースを赤司のお爺さんに見せ に行くのだと言ったら,河田さんがそのピースを見て、 「あゝ、これはもう駄目だ、ダリヤなんか駄目だ。」と 言って捨てると言うんですよ。これは勿体ないと止めて広楽園に同道したのですが、大守さんを中心に、若い所で河田さん、そして事務面で私など、シンボルとして猪野さん、そのへんで、いつも赤司のお爺さんに御迷惑をかけて,広楽園を根城にした様な事で、それからばら会を作る気運が生まれた様なものでしたネ。

 河田さんはもう熱心で、最初のばら展の時に河田さんの出品の黄色のばらが美くしかったのが今でも覚えています。私が出したピースには葉が無いんですよ。その頃、農薬の良く効くのが無いので、家庭用のBHCを撒いたらですネ、ア ブラ虫はいなくなったのですが、薬害で上の3枚葉から 新葉のあたりが枯れて全部無いんですよ。ところが、みんなそれに気が付かないのです。今では、そんな事は無いのですが、その頃は恥かしながらそうだったのですネ。みんな気が付かんワイと思っていると、「花首の下の葉が無いよ」と誰かが大声に笑う。誰かと思ったら、有隅さんですよ(笑)。それが有隅さんとの出会いです。目が鋭い...,すぐ見破られました。とにかく、第一回のばら会はたいへんな盛況でしたネ。あの頃の玉屋の宣傳部長さん、山田さんですか、宣傳部の方も蓋を開けてみて吃驚されたわけです。とにかく入りきれないのです。会場にネ。もう、いっぱいでした。その時、有隅さんとお会して、それからすぐ入会, 70何名かのおひとりではないかと思います。

大守有隅さんにネ、会長が注目されたのは無肥料で作っているのがいたく感心されたのですョ。

司会今、河田さんの黄が非常に評判が良かったとおっしゃいましたが、今、記録を見ますとこう書いてありま す。...河田氏のフー・ベルネ・デュッセなど鑑賞者の一致した絶評を受けた......と。だから黄色と云うのはフー・ベルネ・デュッセのことで、これは春のバラ展でございます。春に白ボケするのが常識であった。フー・ベルネが黄色に咲いたと云うのは素晴しい技術だと感心致します。

司会そうすると、河田さん・有隅さんどちらも九大の学生さんだと思いますが、第一回のばら展の前に御入会になったわけなんで?

河田いえ、私はちょっと違うのです。有隅さんと一緒 なんですが。

当時のバラ苗の値段

河田私がバラを作って居りましたのは赤司さんの所のバラをボッボッ購めて、あの当時、高うございましたからネ。あの頃100円でしたから(笑)今でいえば3,000円 か4,000円か、そのくらいの感じでしたからネー、やはり....

大守まだ高いのがあったのですョ。私が第一回目、ビー スを送って貰ってネ、神中先生が私のポケットマネーが 無くなったからと云って、400円で売れと云って...

徳永私の記憶ではですネ。私共、ばら会を創めようと云う時、何かといって赤司さんの所に行くと、お金ない時にばかり赤司さんの所に行く。そしたらお爺いさんがお昼になったら寿司、帰りもソバとか、とにかく御馳走して下さるのです。私共が恐縮して「そう構って下さるな」と申しますと「イヤー、徳永さん、心配せんでもヨカ、パッと私がひとひねりで300円ですよ」(爆笑)

大守いや、東京から特に譲ってもらった品種があるのですょ。それが1,000円。そのころ、よそから取るとそのくらいでしたネ。 ピースは一番最初にとつた値段が1,200円でしたネ、大守さん。

大守1,200円だったかな? 1,000円?

徳永いや 1,200円でしたよ。

大守それでも高くないんだ。。(笑ワイワイ)

第一回ばら展の頃

河田私は昭和20年頃からボッボッ、まあ年に5本・6本と買い集めて、およそ30本ばかり持って居りましたが。ひとりで栽倍して居ったのです。何か、ばら展があると云う事を赤司さんのお爺さんに聞いて初日に行きました。 会場がこの部屋よりチョット広いぐらいで、おおよその花は大守さんと徳永さんお二人の花でしたかネ。猪野会長の花はあまり記憶にありません。

司会今、おうかがいしますと当時のばら苗を買うのにはたいへんな苦労があった。高くもあるし、高いばかりでなくて、なかなか希少価値があって手に入らなかった。 と云う所に、ばら会に入りますと、福岡ばら会も日本ばら会も配布苗と云うものがあって、地方では手に入り難い品種が配布苗と云う形式でくださるので、是非ばら会に入らんと損すると云う事で、ばら会も非常に盛況になりますし、それが反面ばらブームに火を付けたと思いますが、今は何処に行っても最新の品種が、いつでも安い値段で買えますし、また指導書もずいぶん出て居り居りますので、ばら会に入らなくてもばらは作れると云うことで、ばら会の価値がだんだん低下して来まして、 これは、全国的な傾向ではないかと思います。私共、御先輩の作られました会を何とか発展させていかんならんと必死になって考えて居りますけれども難かしい点も御座います。今、会員が300名近くおりまして、まあ全国の地方ばら会の中でも少くない方と思いますが「がんばらにゃ」と一生懸命です。今、当時の会員名簿を見ますと柿本さんが10番目ぐらいに入って居られます。で、御婦人方としては柿本さんが一番古いと思いますが、何かその頃の思い出を。

柿本その当時、私が参りました時は牛乳ビンに挿して、そして、何階かの外の三角の所でしたから、風が吹いて吹いて...

田中丸あれは5階でせうネ、5階に三角地があります。 柿本さんはどう云うきっかけで入会されたのですか?

柿本あっ、それは河田さんですょ。河田さんが庭を作って下さって、その河田さんのお勧めで入ったと思います。

河田そうじゃない様に思いますが(笑)それで先ほどのを続けさせて貰いますと、そう云うのでばら展会場に大守・徳永お二方の花があって、見事な花で吃驚りしたわけです。でもウチにも咲いているから、とにかく持って来ようと云うわけで、その足でウチに引き返して直ぐにバケツ一杯持って来た憶えがあります。その時にフー・ ベルネ・デュッセとかアレキサンドル・ベルネとか二・ 三品種でした。その時、九大の方がみえて、なかなか鼻息の荒い方でと云う様なことをお聞きしました(笑)そのときに有隅さんにお会いしたんです。私は九大に入って居りましたがあの頃は生物系と非生物系と二科に分かれておりまして、私ははっきりコースは決っていなかったのです。それで、園芸なんて云う便利な教室があるなんて知らなかったもんです。とにかく入ったところ有隅さんが入って居られた。こんな便利な遊ぶところがあれば(笑)、私、勉強が嫌いですから入った様なもので、 だから、ばら会が今の道を進ませて呉れたと云っても過言ではないて思います。どうも、厚く御礼申上げます。 (笑)

柿本やっぱり河田さんのお勧めで入ったのではないかしら?

河田そうじゃないのです。

柿本あのお庭を作っていたいたのは?

河田いや、それはそうですが、その前にもう御入会なさっていたと思います。赤司さんの所でお目にかよって、 丁度家を建てられた時で、うちに来てもらえないかと云う事で御伺いしたのを覚えています。もう、その時はば は植っておりました。玄関に例のルーズベルトと云う古い切花のばらが赤い煉瓦の所にあって、それが見事に咲いて居りました。だから、もう、若干植えておられたし、本格的にお作りになったのはその後でございます。

田中丸柿本さん、御主人はちっともやられなかったの?

柿本そうですネ、切って持って行くばかり。(笑)

田中丸柿本さんの御主人には、私、前からロータリーでお近づきを願ってましたのでネ、ばら展会場にはあまり見えませんでしたよ。一度、ちらっとお会いしたぐらいで...どちらが主体かなと思ったことがあるんですよ。

柿本ほんとうにゴルフばかりで。

司会いろいろお伺いしますと、玉屋さんと会との関係は、もう、このばら展前の創立当時からしっかりした関係が出来ていたわけですネ?

大守そう他は見向きしないでネ。その後、岩田屋さんをはじめ大丸さんからも玉屋さんを上回る好条件で話がありましたが一言でお断りしました。

田中丸イヤ、それはよく聞いています。

大守良かったですョ。全く筋を通しました。

司会猪野さんが全く古武士の様な方で、私は、よく憶えて居りませんでしたがこの記録を見ると私が入会したのは発会して2年目ぐらいの様です。猪野さんとは猪野さんの御子息が同じ会社に居りましたので、まんざら知らないわけではありませんでした。私が一番よく憶えて居るのは「福岡ばら会と日本ばら会とは、太田さん、同じレベルバイ。従属関係は無かとちゃけん、ペコペコすることはいっちょんありまっせんバイ」と再三云われたことです。それで他所に会場を移す様な気配がありましてもネ、それはもう一言のもとにはねつけられたのを記憶して居ります。

大守猪野さんが、太田さんにぞっこん惚れこんだ。イヤ、太田さんのところのばら作りに惚れこんだ。 司会・同じ会社に居った猪野さんの御子息は又太郎君と云いましたが、私が又太郎君に、私はばらを作っとるバイと云いますと、彼は私の親父も昔からばらを作っとりまして、それぢゃ本を持って来ませうと云う事で、本を、外国の本で御座いました。暫くすると親父がばら展をやるので本を返して呉れというとりますバイと云う事で本は返しましたが、その時私は、ばら会と云うものが世の中にあるとは知りませんでした。ホー、そう云う団体があるのかと感心しました。その頃、私は久留米に住んでいて、兵庫県の山本からナショナル・フラワー・ギルドとか、フー・ベルネ・デュツセとか、ラジオだとか、ウ イルヘルム・ブリーダー等を買って作っていました。

 その後、又太郎君からばら展に来ませんかと誘われて、玉屋のばら展を初めて見に参りました。それで一瞬で頭が カッカするほど驚きまして、「世の中には、こげん沢山の美くしかばらがあるとバイネー」と感極わまって即座に入会しました。その帰りに、女房がもう疲れたと云うのを、 無理矢理に赤司広楽園に連れていったわけです。赤司のおじいさんが居られて、そこで20種ぐらい買った様に覚えて居ります。値段の方は女房に出させましたのでよく覚えて居りませんが、さっきの河田さんのお話を開くと、ずいぶん高かったじゃないだろうかと(笑)... 赤司さんが高かったじゃなくて、当時のばらの値だんが...

徳永赤司さんで買いますとネ、だいたい100円前後でしたネ。

大守第一にネ、赤司さんのばらは値段よりか生(イキ)が良かったです。赤司さんのを買えば間違いなく大きくなる。他所から通信苗を買えば半分は枯れてしまう、そんな状態でした(一同、そうでしたネと感じ入る)。

司会さっき柿本さんが云われた様に、最初に見に行ったばら展が確か屋上の様な気が致します。そして、牛乳ビンに挿してあって、風がドンドン吹きっ放しで...今でも憶えて居るのはカトリーネ・コリデス、クリムソン・ グローリーの親ですネ、これが本当に美くしく咲いてい た。ま、その時はカトリーネがクリムソンの親だと云うことなどは勿論知りませんでしたが、ずいぶん立派なばらがあるモンだと感じ入りました。そして、次のばら展で、これは猪野さんの多分の政治的配慮があったのではないかと思いますが、イキナリ天賞を頂きましてネ。これが、とうとうばらに吸い付くもとになりました。あの時の天賞が其後の私の人生を大きく変えました。(笑)

徳永その時のばら展は7階でした。実は玉屋の方に大守さんが御話下さった段階では全面援助するが、企画の方と相談しろと云うので、私がその時の玉屋さんの宣伝部長・山田さんと相談したところあまり良い返事ではなくて、7階にひとつ空いていると云うことでそれしか無 いと云う事で見にいったところ、まだ下塗りが乾いていない様な(笑)ドアが無くて、やはりばら展と云うとどんな反響があるか判らんでせうから、私達は一応、新聞社の後援を考えて、朝日・毎日・西日本等はチョット大きいから夕刊フクニチぐらいが良かろうと、夕刊フクニチに行きましてネ、後援して呉と、どんな事やれば良い?と云うので何か記事をひとつ扱って呉れと、宣伝がいるだろう?と、玉屋でばら展があると云った宣伝と、それから何か賞品を出して貰いたいと云った厚かましい事を云って。そしたらメダルを頂戴しましたです。それから7階の会場でしたが凄い反響で、お客がいっぱいで入りきらない。ところがが夕刊フクニチは取材に来なかった。それで、その時のことをよく覚えていますが、朝日も毎日も西日本も、その頃は夕刊は4面しかなかったの に1面を全部ばら展の記事と写真で埋めてしまった。それで夕刊フクニチの担当の人がエラク叱かられて、あくる日は今度は夕刊フクニチが自分の所が後援したと1 面に記事を扱ったのです。最初はですネ、あれほど大きい反響があるとは思はなかった。

司会記録によりますと27年に会が出来て28年の6月頃に「本会結成以来の功労者、徳永・横尾両氏を送別」とあります。横尾さんにおききしますが、当時の九大農学部の方々の中で一番先輩だと思いますが、やっぱり最初に入会されたのですか?

横尾イヤ、ばら会に入った頃のことは余りよく覚えていない。結局26年の秋頃農学部の園芸教室に入ったのですが、既に有隅さんなどは園芸教室に居たので... 有隅さんは最初から園芸をやると初めから決めていたので入会も一番早く、私は有隅さんとの関係で2年目ぐらいに入会したのじゃないかと思います。私が記憶に残っているのは大守さんのお宅とか徳永さんのお宅を学生の遠慮なさから夜遅くまで御うかがいしたのですネ。私の家は佐賀の川副という所で畑も広かったのです。それでばら会の苗木・配布苗の第一回目を私の家で作った様な記憶があります。その時、有隅さん河田さんも私の家に来て、いっしょに接木した様な記憶があります。そして苗木の出来る頃には私は本業しまして、金沢の農地事務局(今の農政局)に赴任しました。記録には6月とありますが、実際には4月に福岡を後にしたわけです。私が学校出ましたあと、有隅さんが家に苗をとりに来たという事で、大守さんからお礼を沢山頂いた様です。

司会横尾さん、あなたが久留米の試験場に居られた時に時々私の家に遊びに来られた時、その時の接木の話をされたことがあります。有隅さん・河田さんといっし よに、分業で、ワックスにチョッと演けたと云う様なことを...

大守あのワックス使用は関西の岡本先生の入れ知恵で。

徳永私が有隅さんに会ったのは、この玉屋の会場でしたヨ、有隈さんにその時、接木のナイフの研ぎかたまで習った覚えがあります。(笑)あなたが髪にかかるだけじゃ駄目なんですと云って...その後の配布苗を私の家の狭い庭で、あなたがナイフを研いで、河田さんなんかといっしょに、ワックスに漬けたり、畑に伏せたり。

創立当時の活動・・・若い力

大守緒野会長はじめ私達年配者だけで考えたのではばらの知識は進まんバイ。是非、横尾・有隅・河田さんなどの新進気鋭のブレーンに活躍して貰わんと会は進んでいかん。日本ばら会に負けるなと云う様なことで、早速三人に研究委員と云うことになって頂きました。

司会その頃玉屋さんの宣伝部でばら会を担任さるてい た久村さんに何かひとつ。

久村もう記憶も薄れていますが、お世話をしていて、たいへん往生した事を覚えて居ります。ばら会が善八会長にアタックされたと云え事は全く正解でした。それで宣伝部長の山田さんがずい分苦労されたと思います。会場設定が三日間と云うのが私の方の企画に合はないので す。あと3日をどうすると云う事ですネ。会期の設定をするのにお互に苦労して、花が足りなかったり気をもむ事ばかりでした。

田中丸今は1週間を2つに分けていますが、その頃は1週間、1週間の切換えでしたから、3日じゃ困る、せつかくやるのに3日じゃ困ると云う様な事で、今はやりたくても1週間は出来ません。

久村その頃は催物の考えかたが1週間単位でしたから。

一同じゃー、ずい分御迷惑をかけたわけですネ。

司会その頃の古い事は最近の新しい会員の方は知らないわけです。ばら展は玉屋と云う事は当り前で、玉屋でばら展をさせて頂いているのではなくて、してやっているとの気持もある様で。私はしばらく東京に居りまして、 東京のばら展が会場の設定にたいへん苦労して担当の理事が毎日毎日各デパートと交渉すると云った事でした。 それに比べると、こんなに恵まれた会はないと思うのです。会員の皆さんと、今日に至ったいきさつをよく認識して貰いたいと思います。

 記録によりますと発会した年の10月には、小倉ばら展視察に大守・徳永派遣とか、著名な世界的権威である岡本勘次郎氏来福とか、西日本ばら連合座談会を翌る年2月に実行して居るとか、又、中央とのかぶり合いにずい分積極的に活動されて居ります。 有隅さんが東京のばら展を見学とか、今より、むしろ、その頃の方が横のつながり、各ばら会との交流とか、なかなか盛んで、非常に感心して居ります。

大守さきほどチョットふれましたが、会長が有隅さんを特に買っていたのです。無肥料でばらを作り実生をするとかの話にいたく感心されて「アノ人はただ者じゃなかバイ。もうひとつ、ばらのためにブレーンになって活躍してもらわんといかん」と云っていました。

徳永福岡ばら会は、考えて見ると最初から恵まれて居ったのですネ。人の面でも物の面でも。

司会有隅さんは、その頃もう育種をなさっていたのでせう? 私は、お宅が篠栗にあった頃、たしか昭和30年と思いますが、所用で飯塚に行く途中、無断で、チョット 拝見させてもらったことがあります。今、私も実生のはしくれをやって居りますが、ずい分早くから育種をやおやりになったわけで感心致します。

その頃の栽培法

司会次に当時の栽培法について・・・、27年に発会して27年の6月9日にはもう第一回目の会誌が出ています。それに赤司のおじいさんが「ばら病虫害の防除」と云う寄稿をされています。その中に黒点病に就てノックメートを使えと。当時の新薬のですね。そしてノックメートが入手出来ぬ場合は冬の消語には三斗式ボルドウ液(笑)か、50倍の石灰硫黄合剤を薬が伸びてからは四斗式ボウドウでと、 なつかしい名前が出て参ります。私ども入会した頃は「ボルドウなんか自分で作らないかんバイ」と云わました。それ からもう根頭癌腫病についての記述があります。皆さんの古い型の栽培法に就て御伺いしたいと思います。品種を見ても弱い品種が多く、農薬も肥料も今日ほど進歩してなかったので、たいへん苦労された事と思います。

大守有隅さんは無肥料と云う事で、消毒の方もあろうし、当時の思い出をお願いします。

有隅私の所はすぐ裏が山で落葉が沢山ありましてネ、それが肥料の代用と云う事でした。そして育種をやっていましたので、どうしても肥料をやると実がうく乗りませんのでその頃は専ら無肥料でいたんだと思います。

司会薬と言うと私は三共ボルドウでしたが皆さんは三斗式や四斗式のボルドゥを使って居られたのですか?

河田私は最初から三共でした。

大守私の時はボルドウ作ったです。

河田ばら会に入る前は薬は使わなかった。幸いな事にウチは住宅に囲まれて、長年ブラックスボットもウドン粉も知らなかった。隔離地帯で......ばら会に入ってから いろいろなものが(笑)......

初期のばら展

司会戸次さんが第3回展で天賞をおとりになった記録がありますが、なにか苦心談でも?

戸次あの入賞した花は、何かの本で見ましてですね、 一晩水につければ良いと云う様なこと、水槽の深さを計って首揃えて下におもしをつけて水につけといて、それが案外良かったのではないですか。

司会ここに10回ばら展までの記録がありますが、ピー スとか、スベックス・イエロー・アルサスとか当時の新花が古い花に混って出て居ります。その頃の思出をひとつ。

有隅私が今でも印象に残って居りますのは金沢さんのオフェリアだったですネ、それに柿本さんのミッセル・ メイヤン、徳永さんのイナ・ハークネスですネ。

徳永そのイナ・ハークネスの苗の値だん覚えて居りますョ。大守さんと手分けして、イナ・ハークネスとオペラを買ったのです。私が安いイナ・ハークネス、大守さんが高い方のオペラを買いました。 。

大守イヤ、それでバアさんに怒られたのです。イナ・ハークネスを見たところオペラより良いって、それをなんで徳永さんの方に良いのを分けたかって(笑)

河田私の記憶ではやはり最初のばら展で私の知らぬ品種が沢山、ゴールデン・ドーンとかエクリップスとかウ イリアム・オーアとか沢山見せて頂いた。新品種ではなかったけれども。やはりあの時はピースと云うばらに一番感銘を受けました。

大守そのあと2〜3年はピースの全盛なんですョ。その一番早い頃、有隈さんが素晴しいピースを出しましたネ。

司会それは私も憶えがあります。その時私はピースではじめて天賞を頂いたのですが、猪野さんがチョットと呼ぶのです。そして、あんたのビースよりは、このピースの方がウンと良かろうが、これは有隅と云う幹事が作ったのやからコンテストには出さんやった。しかし、だいたい、こっちの方がウンと良かバイ。これがコンテストに出さんやったから、あんたが一等になったと。

有隅そのピースは覚えて居ります。

司会末松先は何時頃入られましたか。

末松私はばらを作って居りましたが、田川の教育大学の方に勤めていたので最初母の名前で出したと言う記憶があります。実は親父が昭和2、3年ごろジュリエットと云う2円50銭もする高いばらを買って来て、その頃2円50銭と云うと米半俵ぐらいの値ですね。10本ぐらいそんなのを持っていました。猪野さんの御子息と私が同級生だったものですから猪野さんからばら会を作ったからと勧誘を受けたのです。近くに二代目会長の原 資文さん(故人)が居られて見に来なさいと云う事で、昭和33年か4年頃 の入会だと思います。それで、あの奇麗な猪野記念杯が出来たとき一花でそれを頂戴した事があります。

司会まだ話は尽きないと思いますがもう時間も過ぎましたので、この辺で打切りたいと思います。貴重な話を御伺いしまして有難う御座いました。先輩のあとを汚がさない様、一同頑張ります。会長の御挨拶で締めくり たいと思います。

田中丸本日は本当に先生方、皆様も御多忙中遠方よりお出で下さり有難う御座いました。こう云う歴史的なお話を承って、非常に有難く興味深く聞かせて頂きました。 今後ともどうか宣敷御願申上ます。