バラ達と共に 緒方 道雄
平成13年/2001 No.12 掲載
長崎市の、西北のはづれに、県の建売り住宅を購入してから、もう四十五年にもなりま す。敷地約六十五坪、建坪十三坪、燐寸箱の様な、それでも憧れのマイホームでした。三十坪ばかりの空地は、幼稚園にも行かない子供達の遊び場でした。
近所の家々では競って庭が作られ、生垣用の苗木が植えられ、花や野菜も見られる様になりました。
暫くして、遅ればせ乍ら、我が家も屋敷の境界に生垣をすることにしました。新しい団地のことではあり、何時も沢山の苗売りが見られました。長崎市外の古賀(田主丸の様な所)から来たと云うオバサンに、柴の苗木を注文しました。その時、オバサンから「バラを植えて見ませんか、四季咲きで、色も沢山あり、その上、香りもいいですよ」と、盛んに奨められました。菊や、ダリア、チューリ ップ等は、姉達がよく作っていたので知っていたのですが、バラの花は見た事もありませんでした。而かしバラを作ると云うことは何かとてもハイカラな事の様に思え、奨められるままに、赤、白、桃色の、四本を買いました。クリムソングロリー、ホワイトクリスマス、 キングスランサム、クイーンエリザベス、の名札がありました。長いバラとの付合いのスタートになろうとは夢にも思いませんでした。
ダリアや、菊と同じ様な積りで植えられたバラは剪定されることもなく伸び放題となり、春から秋の終わり迄、小さな花が咲きました。油虫の大発生にも悩まされました。当時は未だ蚊帳の時代で、フマキラーは蚊退治の新兵器でした。蚊に効くなら、油虫にも効く筈とばかり、バラの新芽、蕾、に噴霧しました。 油虫も死にましたが、新芽も、蕾も枯らして しまい、農薬等の知識の無さを反省させられ ました。
丁度その頃、会社の同好会に、園芸部があることを知り参加致しました。其所で初めてバラ作りの先輩達と出逢い、初歩的な指南を受けました。剪定、消毒、施肥、等々面倒なことが段々と判って来ました。一番、驚いた事は植え穴を五十センチも深く掘り、元肥をたっぷりやらねばならぬと云うことでした。
私の屋敷は、深田を山の赤土で埋め立てて造成されており、子供の頭程の石も沢山混じていましたので、云われる通りのバラ畑に改良するためには、とんでもない作業が発生しました。鶴嘴や、大きなスコップも購入する破目となり、一日耕やしても畳一枚位しか進捗せず、更には近所の山から落葉を集めてくるのも大変でした。畑土を客土するとか、堆肥を敷込むとかの知恵も資金もなく、唯々、汗の労働あるのみでした。終戦後、タイ国で捕虜となり、荒れ地を耕やして、カボチャを育てた事を思い出したりしました。
週一回の日曜日は、子供の相手、仲間との釣り等で、バラの手入れは後廻わしの状態が続き、油虫、黒点病の対策も後手となり、春のバラはともかく、秋バラは葉の無い花を見るのが度々でした。
昭和四十二年、新長崎バラ会が発足すると同時に同好の人と一緒に参加しました。バラ展も春秋二回開催されましたが、平日は仕事ですので休日のみ、片隅みの方に展示する程度でした。
昭和四十八年八月、かねて覚悟はしていましたが、筑紫野市の工場へ転勤となり、バラをどうするかと云う問題が発生しました。捨てるのか、連れて行くのか、迷わざるを得ませんでした。
園芸部の先輩で、百二十株程のバラを育てられた超ベテランの方が、東京へ転勤された時の事を思い出しました。結局、先輩は捨てて行かざるを得ませんでした。東京での庭の確保、或は成木の移植の可否等により、無念の涙を飲んでの決断でした。何時もコンテス トに入賞する様な花が咲いた株々の思い出だけを東京へ持って行こうと、全株、鉈で根本から叩き切られたものでした。手塩にかけたバラ達の行く末を案ずるよりも、ひと思いにとの決心だと推察され、何か判る様な気がしました。
でも私は連れて行こうと決めました。筑紫野市近辺ではバラの植えれる借家もあるかも知れない、又成木の移植でも成功するかも知れない、失敗したら諦めよう、そうする事がバラ達に対する義理でもあるかの様に感じられてなりませんでした。
私は単身赴任とし、家族の引越しは子供の学校の都合で翌年三月となりました。移植の適季は十二月末が望ましいとは考えましたが旨く都合がつきませんでした。
借家探しも、そう簡単ではなく、西鉄駅より歩いて十五分位、バラの五十株が植えられる空地がある事と云う条件は、不動産屋に大変御苦労をかけることになりました。場所や、 間取りの情報は有りましたが空地については殆んどなく、ましてやバラを植えることにつ いて家主の諒解をとる等で、不動産屋は大変でした。お陰で、西鉄大橋駅から歩いて十七分位、南大橋の借家に落着しました。屋敷は 水田の上に極く細目の砂を盛り上げ造成されて居り、植穴掘りは至極簡単の様に見えました。
バラの引越しに許される日数は四日(永くは休めない)、掘り上げに二日、運搬に一日、植付けに一日、と割り振りました。
成木は一株づつ充分に土をつけて梱包する積りでしたが、掘り上げの際、土はぽろぽろと落ちてしまいました。移植は絶望かと観念しました。致方なく、三十センチ位の根をつけ、乾燥しない様に、濡らした古茣蓙で、三株づつ梱包し、家財道具と共にトラックに積み込みました。
植穴を掘って植込むだけでした。新芽も殆んど落ちてしまった状態でした。沢山の友人、知人の加勢なくしては考えられない作戦でした。バラ達が一番迷惑したのではないでしょうか。案ずるより生むが易し、無事活着しました。生命力の強さに驚くとともに、少々、 乱暴に扱っても、大丈夫だと思いました。
昭和四十七年、福岡バラ会に入会させて戴きました。初め長崎で十年、南大橋で三年八ヶ月、又長崎で三年、更に春日市で三年、現在の和白丘で二十年、合計四十年、四回のバラの引越しを致しました。
昨年のポートランド旅行は、私達の金婚旅行でした。バラとの仲も四十年、家内についで永い付き合いとなりました。相変わらずの六十点のバラ作りを続けています。六年前に慢性関節リウマチを患い、釣りも、ゴルフも出来なくなりました。齢八十、今更作らと思いつつ新苗を植え、PHを測り、ピートモスを与えています。皆さんは、きっとおかしいでしょう。でもバラ作りには、楽しくて、苦しくて、止められない、不思議な魅力を感じます。