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ローズ・ふくおか アーカイブス 1987 薔薇を想いて

薔薇を想いて   瓜生 典清
平成元年/1987 No.4 掲載

 願わくば 花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃 と西行法師が詠んだ如月望月(旧暦2月15日)は、 今年は意外に早く3月14日である。早咲きの寒緋桜は別として西行が生涯愛し続けた桜も今年はとてもほころぶこともない。常々、この歌に詠まれた時期が気になっていたが、ここ数年の暦を見返してみると昭和57年から昨年までの5年間、それぞれ3月10日、3月29日、3月17 日、4月4日、3月24日であり、案外桜の開花に対して的外れでもないことが判る。五十路の坂を越える頃より、 後幾度春の桜を観賞できるものかと思いはじめ、折を見てはあちこちの桜を心掛けてはいるものの、勤務ある身としてはいわゆる名桜として知られているものの開花期に訪れることのいかに至難なことかと嘆いている昨今である。岐阜県根尾の里にある薄墨の桜にもまだ出会う機会がない。

 西行の歌のパロディーではないが、願わくば 薔薇の下にて春死なん 彌生花咲く望月の頃 と口ずさんでみると、桜もさることながら薔薇に魅せられて過ごした20年近い歳月を想う。薔薇熱症候群 Rose Fever Syndrome, これは私の勝手に作った新造語かも知れないが、略してRFSと呼ぶことにしよう。我等が愛する福岡バラ会 Fukuoka Rose Society, の略 FRS と最初の2 文字が代れ替っているのも一寸気になるが御容赦頂きたい。この RFS に羅病してから一進一退を繰り返しつつ未だ治癒のきざしもない。春秋の Rose Festival に出品されたバラ作りのベテランの方々の花に魅せられて、 バラ苗を買い求め、園芸書を頼りに植穴を堀り、施肥、 消毒にせっせと勤しみ励む頃がこの RFS の第一期症状 である。すすめられるままにバラ会に入会して研究会にも出席し、作り方のこつもどうやらのみ込んでコンテス トに入賞でもすると第二期症状に進行する。この頃になるとやたらバラに関するものが何でも欲しくなり、ネクタイやブローチ等のアクセサリーに薔薇をデザインしたものを求め、御婦人に至っては帯や衣裳にまでも薔薇の模様をあしらったものを特注したりなさる。庭のそこここに植えてあった折角の庭木も邪魔物扱いされ、何時の間にか引き抜かれ、庭中所狭しと薔薇一杯になるのも此の頃である。部屋には薔薇の絵画を飾り、薔薇と書いてある書物は手当り次第買い求めるといった有様である。

 コンテスト派、ガーデン派いずれを問わず、一応バラ作りのこつを自由自在にこなしてバラを楽しめるようになったいわゆる達人の境地になれば、最早恢復の望みのない RFS の未期症状である。我が生涯バラと共にあり、死に至るまでバラに囲まれて過ごしたいという心境になる。西行の歌そのままに薔薇園に土葬してもらい、我が身自ら薔薇の化身となって再び此の世に咲き戻れたならばと莫うても、現在の生活感覚から言ってそれは余りにも異常で、到底許さるべくもないことだが、せめて柩の中を薔薇の花で埋めてもらい安らかな永遠の眠りにつけ たらとRFS未期症状患者としての終焉の時の至福を思う。

 昨年は忙しい一年で、ゆっくり薔薇の手入れも出来なかったことが悔まれる。春バラの後、ほとんど日曜毎に雨で、除草も、消毒もついつい怠り勝ちになり、8月に入ると多くの株は葉を落していた。それでも9月初めの 剪定後は調子よく芽吹き、出品作品とまでは行かずとも自宅で観賞する程度の花を次々と咲かして呉れた。薔薇は案外たくましい植物である。適期に重点的な手入れをすればそれで結構楽しめるものである。

 研究論文の推敲や校正に明けくれ、テキストの原稿書きに追いまくられた昨年ではあったが、久しぶりにアン デルセン作の即興詩人を読んだ。御承知の方も多いと思 うが、この小説は主人公アントニオをめぐるアヌンチャタをはじめとする美女たちのきらめくばかりの美しい物語りで、森鴎外の文語文で書かれた名訳によってひときわ格調高く我々の心を打つ。アントニオが少年時代、母とともに、ジェンツアノの花祭りに出かけた時の情景は我々 rosarian には忘れ難い印象を与える。

 ーーその日 先づ目に触れし街の有様、その彩色したる活盡図を、当時の心になりて写し出さむには、いかに筆を下すべきか。 少しく爪尖あがりになりたる、長き街をば、すべて花もて掩ひたり。地は青く見えたり。かく色を揃えて花を飾るには、園生の草をも、野に茂る枝をも、摘み盡し、折り盡したるかと疑はる。両側には大なる緑の葉を、帯の如く引きたり。その上には薔薇の花を隙間なきまで並べたり。 ーー (鴎外全集第二巻より抜萃)

 その時道一杯に敷きつめられた薔薇は一体どのようなものであったろうか。即興詩人は Andersen (1805~18 75)が30才の1835年の作品である。現代バラ、すなわち H.T. 第一号であるラ・フランスが作出された1867年から120年を経た現在、1830年代のバラは我々に眼にするバラとは可成り異なったものであろう。ナポレオン妃ジ ョゼフィンがパリ郊外のマルメイゾンに於いて園丁をしてせっせとバラの育種に努めたのは1810年前後のことである。画家 Joseph Redoute になるマルメイゾンのバラの写生画は1817年より約8年間の労作となっているから、彼の画集に見られるガリカ、センティフォーリア、アルバ、モス、チャイナ等の品種は恐らく当時のヨーロッパ 各地で盛んに栽培されていたものであろう。嘗って愛培 したブルボンローズのスブニール・ドゥ・ラ・マルメイ ゾンやハイブリッド・パーペチュアル種のフラウ・カー ル・ドルシュキー(不二)等に似通ったバラは当時すでに作出されていたであろうか。

 ルドゥーテの画集に画かれている様なバラが家々の窓 という窓から道一杯にまで敷き詰められ、その上を精一 杯着飾って祭に集まった人々の楽しげな語らいの様を想 像してみよう。せめてFRSの集まりででも、RFS患 者の熱にうかされた話題として、なごやかな百数十年前 の花祭りに登場した薔薇の姿を語らいたいものである。

(昭和62年3月3日記)