回想 赤司 廣次
平成11年/1999 No.10 掲載
昭和27年、福岡バラ会の発足と同時に第1回のバラ展を開催し、以後回を重ねて今年5月、第95回春のバラ展を最後に歴史ある福岡玉屋さんが7月15日に閉店されました。
諸般の事情でやむを得ないことでしょうが、大変残念な思いでいっぱいです。長い間、本当にお世話になりました。格別のご支援をいただき、95回ものバラ展を支障なく、盛会に開催できたのも玉屋さんあってのことと言っても過言ではないと思います。
このたびの閉店で、福岡バラ会も一つの区切りを迎えました。これを機会にバラ会初期の頃を朧気ながら知る者として少し振り返ってみたいと思います。
バラ会設立に尽力された諸先輩方も既に故人となられ、拙い文で申し訳ありませんが、先輩方の労に感謝の意味も含めて記事に致します。
バラがお好きであったお三方、猪野鹿次さん(初代会長)、大守加津馬さん、徳永時雄さんが度々私の所(赤司廣楽園)で一緒になられ、何時しかバラ会を作る相談が持ち上がり、それにはバラ展をやって多くの人々にバラの花を見て貰おうと、早速会場の物色になり、それには沢山の人が集まるデパートに話を持ち込むことにしました。
それで、かねて面識のあった玉屋の社長(田中丸善八様)をお尋ねしたところ、社長は入院中なので退院後までお待ち下さいとのことでした。
しかし、退院後では春のバラ展に間に合わないと思い、厚かましくも病院に押し掛け強引にお願いし、何とか良い返事を頂き開催に漕ぎつけた次第です。「しかし何分急なことで、デパートも会場の都合がつかず、やっと屋上にテント張りの会場を準備していただきました。
次はバラを挿す容器の問題です。バラ会には購入するにも資金もなく、また戦後の物のない時代であり、なかなか入手することが出来ず、いろいろ思案の末、牛乳瓶ではと思い、玉屋の宣伝部の方と相談し、森永乳業に出向きお願いしましたが、なかなか応じてくれません。
粘りに粘り、三拝九拝の揚げ句1本の破損もなくお返しするという約束で、やっと50本借り受け準備を終えました。
バラ会としては出来るだけの努力をしてのバラ展でしたが、外部からは美しいバラの花を牛乳瓶では情けないと叩かれ、以後は少しずつフラスコを購入し容器を調えていきました。
数々の苦労の末の第1回のバラ展でしたが、お客さんの反応は上々で、デパートも大変喜ばれ、それからは催し場での開催となりました。
これがきっかけで入会者も増え、福岡バラ会も徐々に発展の道を歩き始めました。
当初の世話役、お三方のことですが、猪野さんは頑固一徹な大変厳しい方でしたが、リ ーダーシップを存分に発揮され上手に会を指導しておられました。
また、玉屋さんの包装紙をバラの花をデザインした物に変えるときには、猪野さんのア ドバイスがあったと聞いております。
他にもバラ展に関するデパートの数々のサービス、苗の売り上げの歩合もデパートに入れず、バラ会の運営資金に当てることなど、 すべて狩野さんの交渉の賜物です。
長くなりますので、大守さん、徳永さんのことは今回は省かせて貰いますが、常に猪野さんを支えてこられたご苦労は大変なものだったと思います。
福岡バラ会はこのお三方の努力で基礎がしっかりとでき、今日に至ったものと思います。
末筆となりましたが、重ねて福岡玉屋さんへの御礼と、会員の皆様のご健勝、そして福岡バラ会の今後の発展を祈念いたします。
徳永時雄さんはご存知の方が少ないと思いますが、バラ会発起人の一人で、後年 佐世保に行かれ、佐世保バラ会に貢献された方です。