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ローズ・ふくおか アーカイブス 2007-18 パリで見たバラ

パリで見たバラ   石飛 英二
平成19年/2007 No.18 掲載

  「ナポレオンはドームの真下に独りで眠っていた。アンヴァリッドドーム教会の地下墓所には、その周りの部屋にナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルト、ナポレオンの弟ジェロー ム・ボナパルト、ナポレオンの子ナポレオン2世、フランスの国歌ラ・マルセイェーズの作者 ルージェ・ド・リール、第一次世界大戦時のフランスの将軍フォッシュ、ルイ14 世時代のフランスの将軍テュレンヌ、同じくルイ14 世時代のフランスの将軍ヴォーバンが眠っていた。どこにもナポレオンの妃はいなかった。

 ナポレオンはフランス革命でマリー・アントワネット処刑の3年後、ジョセフィーヌと結婚する。この時ジョセフィーヌは、近い将来自分たちがマルメゾンを邸宅とし、やがてそこで自分が世界中からバラを集め、それが現在の HT の誕生につながることになろうとは思わなかったはずである。そして間もなく、これもまたジョセフィーヌが夢想だにしなかったことが起こる。ナポレオンは、絶対王政を維持しようとするヨーロッパ列強の包囲からフランスを守るために戦い、連戦連勝して国民の支持を得、ついに皇帝となった。両手を合わせて恭しくひざまずく妃ジョゼフィーヌに、皇帝ナポレオンが自ら冠を被せた戴冠式の場所はパリのノートルダム大聖堂である。

 そしてジョセフィーヌは、エジプト遠征の後ナポレオンによって一方的に離婚される。

 ナポレオンが家柄を重んじる皮肉屋の貴族から「貴方のご先祖は」と聞かれたとき、「余である」と答えた話は有名である。皇帝ナポレオンは帝位を伝える子供が欲しかった。しかしジョセフィーヌとの間に子供ができない。ナポレオンは決心する。もはや子供を望めない40代の妃ジョセフィーヌとの離婚。そしてハプスブルク家から19歳のマリー ・ルイーズを迎えた。マリー・ルイーズはマリー・アントワネットの姉の孫娘にあたる。フランス領の島に生まれたジョセフィーヌと違い、年若く新しい妃は家柄としても充分であった。

 やがてモダン・ローズを作り出すことになるマルメゾンに自分だけで住むことになったジョセフィーヌも、ナポレオンと結婚させられるとき泣き続けたマリー・ルイーズも、今はナポレオンから遠く離れたところで眠っているのだろう。

 エッフェル塔から降りてそのアンヴァリッドの方に歩いていたとき、「あれが旧陸軍士官学校よ」と家内が言った。コルシカで育ったナポレオンは、パリに出て陸軍士官学校に入った。見るとその建物の前は綺麗なバラ園になっていた。モンテーニュ大通りからアルマ橋を渡ってエッフェル塔に向かったときも、セーヌの川岸にはバラが咲き乱れていた。

 今回はフランス革命の跡をたどる旅だった。マリー・アントワネットがギロチンに向かう前に幽閉されていたコンセルジュリーにも行った。そのうす暗く狭い部屋は当時のままの状態が再現されていて、片隅に驚くほど粗末なベッド、そのすぐ横に小さな机と椅子、椅子の後ろには監視のための2名の兵士がいる衝立があった。衝立の上から頭だけを出してアントワネットを監視する兵士が1人、もう1人は小机に向かってアントワネットの状態を記録する兵士である。その独房の中で、マリー・アントワネットが実際に使っていた私物も展示されていた。

 ベルサイユのバラと言われているアントワネットは、こよなくバラを愛したそうである。 バラを持つアントワネットの肖像画も実に多く、それらはいずれも同じポーズで描かれている(その多くの肖像画をご覧になりたい方は次をを開いてください)。

http://www.batguano.com/VigeeMAgallery.html (註:このページは "リンク切れ")

 アントワネットが一番好んだバラはロサ・センティフォリアであった。それらの肖像画のバラはすべてロサ・センティフォリアである。ロサ・センティフォリア、このバラはゴッホが、どんな失意のときにも描きつづけたバラであった。バラには夢のような薫りがある。この薫り高いバラ、ロサ・センティフォリアがゴッホにもマリー・アントワネットにもその薫りを与えたとき、二人は何を思い、何を感じたのだろう。モンマルトルの丘のカフェテラスで、コーヒーを飲みながらそんなことを考えていた。

 ナポレオンがフランスの革命を守るためにヨーロッパを転戦しながら戦って、その名声を高めていたとき、ウイーンで交響曲第3番の作曲を終えたベートーベンは、その楽譜の表紙に「この交響曲をナポレオンに捧げる」と書いた。しかしその後ナポレオンが皇帝になったと聞くや「彼もただの人間に過ぎなかったのか」と怒ってその表紙を破り捨て、新しく表紙に「英雄」と書き直した。

 そのベートーベンは作曲家として致命的な耳の疾患がひどくなり、ほとんど聴力を失ったとき有名な遺書を書いた。書きながらその後半、ベートーベンが絶望と苦悩から立ち上がっていく遺書。世に言うハイリゲンシュタットの遺書である。ロマン・ローランの名訳の中で「おお、神よ。あなたはあまりにも残酷です」の一文は、まだ私の頭に残っている。

 ウィーンの国立歌劇場の前にある地下鉄の駅からたしか4番線に乗ると、やがて車両は地上に出てドナウ運河に沿って走る。あのときはハイリゲンシュタットで降り、現在は小さな博物館になっている遺書が認められた家に行って、そのコピーなどを感慨深く見たあと、その近くの、ベートーベンが数ヶ月間滞在したブドウ農家に行った。

 そこは農家が経営する酒場になっていて、ベートーベンのいろんな肖像画などが壁に架けられていた。私たちのテーブルの近くでは何かのお祝いなのだろう、親しい仲間らしい人たちがアコーディオンを弾きながら歌っていた。あのとき、バラの花束を持った男性があとから来てそのテーブルに座り、歌声がひときわ大きくなったことを思い出す。

  フランス革命とベートーベンの音楽。フランス国歌。人権宣言。人間の思想と意志。芸術家の感性。ささやかであっても自分で歩き、自分で見て、自分で感じたとき、生身の人間がつくる歴史が心に直に響く。ベートーベンを聴くとき、バラを見るとき、心は少年に かえったように瑞々しく新鮮となる。旅の醍醐味である。

 聖母マリアが「奇(くす)しきバラの花」と言われているように、ヨーロッパの人たちのバラに対する思いは、明治になってからバラに親しんだ私たちより深いようである。教会にはバラ窓があり、バラ窓は聖母マリアを暗示しているそうだから、そこのステンドグラスを通して教会内部に入ってくる光を、人々は聖母マリアからの光として感じているかのようである。

 ノートルダム大聖堂を訪れたのは日曜日だった。丁度ミサが行われていた。賛美歌が始まるとき、突如パイプオルガンの響きがわき起こった。私はこれ程素晴らしいパイプオルガンの音を聞いたことがない。つづいて賛美歌がはじまった。指揮をしているのは1人の神父だったが、マイクの前のその声に私は驚き、つづいて陶然となった。基礎から声楽を学んだ人に違いないと思った。信者の方たちの賛美歌の声も素晴らしかった。高さ33メ ートルの大聖堂いっぱいの空間を、パイプオルガンと賛美歌のハーモニーが荘厳に、そして美しく満たしていた。それを、直径13メートルの大きなバラ窓にはめられているステンドグラスを通した光が照らしている。その光の中で、宗教的な深い感動に包まれた時間が流れていった。私たちはその感動の中で、最後まで立ち去ることができなかった。ミサが終わって、感動のあまり信者でもない家内までが献金をしてから外に出た。

 革命に反対しているとの噂のために、300人もの修道僧が殺されたサンジェルマン・デ・プレ教会に行ったときにはもう日が暮れていた。教会前の広場では、地面に置いた沢山の蝋燭に火をつけて人々が祈っていた。ふと見るとウクライナのジェノサイドと書いた幕があった。祈っている人々はウクライナの人たちだろう。おそらくパリで移民として働い ている人たちに違いない。ウクライナのジェノサイドについては私も知っていますと、蝋燭に火をつけている人に言って私も帽子を取った。

 マルメゾンでジョセフィーヌがバラを集めていることを聞いて、1人の画家がやってくる。後年「花の画家」「バラの画家」といわれたピエール=ジョゼフ・ルドゥーテである。 彼はジョセフィーヌの許可を得て、彼女が集めたバラをあくまでも写実的に、しかも生きているように描いた。ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテの功績は大きい。彼がいなかったらマルメゾンの植物学的価値は半減したのではないか。

 サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館で、私はたしかにルドゥーテが描いたと思われる数枚のバラの絵を見たのだが、残念なことに写真にも撮っていないし、メモもしていない。あの日私は、カメラのファインダーを通してではなく、自分の眼で見て自分の心に焼き付けるのだとか言って、展示してあるたくさんの印象派の絵を見て回った。こんなことをするものではない。今では殆ど覚えていない。オスロではムンクを見ようと、朝早くホテルを出て地下鉄に乗ったから、ムンク美術館には開館前に着いた。あの時は全部の絵を写真に撮った。だからムンクの「叫び」が盗難にあって大騒ぎになったときも、私は何時でも自分が見た「叫び」を見ることができた。

 マルメゾンも同じである。ジョセフィーヌがどのようなバラを集めていたのか。それを 忠実に描いたルドゥーテがいたから、マルメゾンの価値があるのだろう。

 やがてマルメゾンのそれらのバラからモダン・ローズが作り出された。1年に1度しか花をつけなかったバラが四季咲きになった。それは中国のコウシンバラを交配したからだと言われている。人工授粉、今まで昆虫によってしか交配されなかった花に、革命をもた らしたのもマルメゾンであった。こうしてバラに品種改良の道が開け、HTが誕生した。

 ナポレオンはロシア・オーストリア連合軍を敗ったオステルリッツの戦いの後、凱旋門の建設を思い立つ。ナポレオンの命令でエトワール広場にその建築が始まる。étoile とは星の意で、この凱旋門を中心にシャンゼリゼを始めとする 12本の通りが放射状に延びているのを、星の光にたとえた言葉である。しかしナポレオンはこの凱旋門の完成を見ることができなかった。

 凱旋門の下には無名戦士の墓があった。そこには火が燃えていて、沢山の花が供えられていた。数年前に行ったプロイセンの君主フリードリッヒ大王の墓は、サンスーシ宮殿の横にあった。墓の上には数本ずつの花が思い思いの場所に置かれていた。花を供えたのはドイツの人たちであろう。その人たちは頭を下げ、墓の中に眠る人に祈りを捧げたのであろう。凱旋門の下にある無名戦士の墓に、花を供えたフランスの人たちも祈ったのであろう。勿論それらの墓は誰でもが自由に詣でることのできる墓である。ナポレオンの棺を見るためには金が必要だった。人々は切符を買い、その棺を見る。それは見せるために金を取る墓であった。両端が大きく反り返った巨大な棺の前には1輪の花もなかった。

 エトワール凱旋門はパリ観光の目玉である。高さ50メートルの螺旋階段は少ししんどいが、上に登れば、パリが地上に創られたバラの花ではないかと思えるほどの素晴らしい景観が待っている。多くの観光客はこの凱旋門からシャンゼリゼ大通りに入る。しかし今回私たちは、逆に凱旋門のすぐ横から別の通りに入った。200メートルも歩くと、そこには表通りとは対照的な下町の市場があった。ボンスレの市場。肉に魚にチーズに野菜に果物。どれもこれも山盛りだった。その中をかしましい売り手の声が飛び交っていた。

 フランク王国の東半分は支配者も被支配者もゲルマン、それに対して西半分は、支配者はゲルマンで被支配者はラテンであった。そして東がドイツとなり、西がフランスとなった。このかしましい市場の様子はどう見てもラテンの賑わいである。そういえば地下鉄で隣どうしに空いている席がなかったので、私と家内が別々の席に座ったとき、家内の隣に座っていたパリジェンヌが立ち上がって、私にここに座れと言った。私たちが地下鉄を降りるとき、私と目があった彼女はニコッと笑った。まぎれもなくラテン系である。

 その下町の市場にもバラがあった。無雑作に売られていた。世界中の人がそうであるよ うに、パリの人々も無雑作に買っていた。それは HT であった。マルメゾンから始まった HT。マルメゾンと下町の市場。時は流れるのだと、ふと旅愁が胸をよぎった。 “運命のワーテルローの戦いに敗れた失意のナポレオンは、今は亡きジョセフィーヌとの思い出だけが、どの部屋にも漂っているマルメゾンに引きこもった。ナポレオンとマリー ・ルイーズの間に生まれた男の子、ナポレオンが待ち望んだナポレオン2世は、幼くして 病死してしまった。2度目の妃、マリー・ルイーズはオーストリアに帰ったまま二度とナポレオンの元には戻らなかった。そのときマルメゾンにはどのようなバラが咲いていたの だろう。やがてナポレオンはセントヘレナに流されて一生を終える。

 フランス革命の激流の中には、点滅しながら流れていった無数のドラマがあった。その中で、いちばん華やかなドラマの中から生まれたバラ、それが HT である。そして今日にいたるまで、HT を越えるバラは未だ誕生していない。私の心の中には、もう誕生してもらいたくない想いがある。理由は言うまでもない。それは最高のバラだからである。

 ド・ゴール空港にはオペラ座の横からロワシーバスに乗って行こう。ド・ゴール空港は第1ターミナルと第2ターミナルに分かれ、第2ターミナルはさらに A、B、C、D、E、F のホールに分かれている巨大空港である。しかしロワシーバスは、それらを順々に止まっ ていくから間違いなく飛行機に乗ることができる。今回も飛行機は、私の想いを載せてヨ ーロッパからアジアへ飛ぶだろう。今までも訪れたことはあるのだが、パリにはこれから も何度でも来よう。もっともっと見たいところがある。ゴッホが兄テオと住んでいたところ、人気女優ハリエット・スミッソンに恋いこがれて幻想交響曲を創ったベルリオーズの家、エトセトラ、エトセトラ。そしてパリのバラ。そう思いながらホテルに帰るために地下鉄に乗ろうとしたが、ふと思い返して別の地下鉄でオペラ座に行った。夜のオペラ座。もう終わっていた。聞くだけは聞こうと思って「見学できる?」と聞いてみた。返事は意外にも「できるよ、金はいらないよ」。やはりラテンだなあと思った。